89:金持ち父さん、貧乏父さん(89)

 

『なぁ、ヨル。ヨルのお腹の中に、俺は居るか?』

 

 俺は身をよじってヨルの腕の中から抜け出すと、ヨルの顔を見ながら尋ねてみた。すると、ヨルの瞳がユラリと揺れる。揺れて、その黒い瞳が俺の事をハッキリ映し出した。

 

『……いる。俺の、中にも居る』

 

 震えるヨルの口から吐き出された言葉に、俺は胸の奥が物凄く熱くなるのを感じた。俺も居た!ヨルのお腹の中に!ちゃんと、俺が居るのだ!

 そう思うと、少しだけ。本当に、ほんの少しだけだけれど、サヨナラの時が来ても大丈夫かもしれない。そう、思えた。

 

『ふふっ!良かった!それなら、ヨルが怖い時や、苦しい時に、俺はヨルの助けになれるという事だな!』

『あぁ、あぁっ。そうだ。その通りだ……俺の中には、いつもお前が居たよ。スルー。今回も、ずっと一緒に居てくれた』

 

 嬉しい、嬉しい、嬉しい!

 なんて素晴らしいんだ!俺は村に居たけど、実はヨルと一緒に首都にも行っていたのだ!あぁ!それはとても素敵だ!月を越えるくらい、素敵な事じゃないか!

 

『スルー……俺は、役立たずではなかったか。お前を一人にしなかったか』

『あぁっ!ヨルはずっと俺を一人にはしなかった!ずっと“スルー、お前なら大丈夫だ”ってお腹の中で言ってくれてたじゃないか!』

 

 俺がもう一度ヨルにそう言ってやると、ヨルは眉を寄せ眉間に皺を寄せて俺の方を見た。でも、それはいつもの不機嫌そうな顔でも、難しい事を考えている時の顔でもない。ヨルは自身の唇を噛み締め、まるで泣くのを耐えているような表情だった。

 

 あぁ、よしよし。

 泣くな、泣くな。

可愛い、愛しい俺のヨル。

 

 唇を噛んではいけない。傷付くかもしれないから。

 俺はそう思いながら、ヨルの口にそっと自分の口を押し付けた。あ、そういえば、俺は先程羊の子の鼻に口を付けてしまったのだった。

 

『……っ』

 

 そう思った時には、もう遅かった。

俺からヨルへくっつけた口は、次の瞬間には、ヨルの勢いのよい噛みつきで、俺の口はパクリと食べられていたのだ。ヨルとの口付けはいつもこう。

俺がヨル狼に食われて終わる。

 

 めぇ

 めぇ

 

俺達の腹の間で二匹の子羊が鳴く。それでも、俺達が互いに体を離す事はない。

 互いの呼吸が顔に触れる。ヨルが俺を抱き寄せる手に力を込めた。俺とヨルの間でモゾモゾと動いていた羊達が『めぇ』と一鳴きして飛び出すのを感じる。

 さすがに狭すぎたらしい。

 

 あぁ、ごめん。でも、ダメだ。

俺はヨルとは離れられないのだ。離れたくないんだ。それに久々に会うし、二人でやりたい事もしたい事もいっぱいあるから。

 

『っ、よる』

『するーっ』

 

 一瞬だけ俺とヨルの口が離れた。たまらない気持ちで互いの名を呼ぶ。熱い、と頭の片隅で痺れたような感覚に襲われた時だった。

 

『おい、お前ら』

 

 俺でもヨルでもない声が俺達二人の耳を突いた。聞き慣れた声だ。しかも、その声と気配は一つではない。

 

『オポジットだ』

『……っ!』

 

 俺の言葉にヨルが一気に俺から離れて行く。離れて、オポジットと何人かの村の若い衆を見て、まるでこの世のモノではない何かを見たような表情を浮かべる。よく見ればヨルの耳や顔が徐々に真っ赤に染まっていく。

 

『お、お前ら……いつから居たっ!』

『……それを俺達は答えていいのか?ザン』

『……っく』

 

 どこか生暖かい視線を此方に向けながら答えるオポジットに、ヨルは地面に手をついて俯いてしまった。横から見える耳は真っ赤だ。

 

『……ん?』

 

いや、待て。俺は今しがたヨルと口をくっつけているところをオポジット達に見られてしまった。

 これって、とてもマズイのではないか!?

 

——-お前は本当に汚れた血だよ。なぁ、この事を村の者達が知ったらどうなると思う?

 

 あの日の老いぼれの言葉が脳裏を過る。

 まさか、あの老いぼれではなく自分達でウッカリこんな事態を招いてしまうなんて!こんな事になってしまったら、あの老いぼれではなく俺が崖から突き落とされなければいけなくなるじゃないか!

 

——-オブのやつ、インにばっかりお菓子を渡してるんだ。

——-そんなの不公平だ!

 

 俺は混乱した。混乱してオブがインにばかりお菓子をやっていた時の子供らの不平不満が頭の中を疾風のように駆け巡る。

 

『あっ、あっ』

 

そうか、そうだよな。俺ばっかり不公平って、オポジット達は思うかもしれない。

 そうなったら、皆ヨルに協力しなくなって街道の補正もダメになって、だから、これは、えっと。

 ともかく不公平はダメだ!

 

『みんなっ!聞いてくれっ!ヨ……ザンは不公平じゃないっ!きっと頼んだらオポジット達にも口を付けてくれるっ!俺だけじゃないんだ!だからっ!えっと!全然不公平じゃないんだ!』

『……はぁ?』

 

 俺は勢いよく立ち上がると、オポジット達に身振り手振りで必死に伝えた。すると、オポジットは何故か非常に嫌そうな顔で俺を見てくるではないか。その奥に居る他の村人達もそうだ。皆して、深い眉間の皺を浮かべている。

 

 え、どうして皆こんな顔をするんだ。皆、羨ましくないのか!

 

『スルー。お前……何言ってんだよ』

『オポジットもザンに口を付けて欲しいんだろ!?きっとザンなら頼んだらしてくれる!みんなもそうだぞ!』

 

 そう、俺が皆に向かって叫ぶと、その瞬間俺の後ろから激しい怒声が飛んで来た。

『誰がするかっ!?っクソ!お前は一体何を言ってるんだ!?スルー!』

『えっ、えぇぇぇぇ!?』

 

 せっかく俺が皆に不公平じゃない!と伝えているのに、俺の足元で蹲っていたヨルが勢いよく立ち上がって俺の肩を掴んだ。

どうやら非常に怒っているようだ。