『どうだ?当たったか?』
『……なぜ、そんな』
ヨルが戸惑ったように、俺に問いかけてくる。なぜ、自分の口にしようとしていた言葉が分かったかって?そんなのは簡単だ。
『ヨルが教えてくれたんだ』
『……俺は言っていないぞ』
『違う!俺のお腹の中に居るヨルだ!』
そう言うと、俺は自身の腹をもう一度撫でた。ここに居る俺のヨルは、俺の作り出したヨルの幻影だ。けれど、大変な時や一人の時、この幻影は他の嫌な幻影とは違い、俺の背中を押してくれたり、強くしてくれたりする。
俺にとっては、もう本物のよると同じくらい大事なヨルだ。
『……お前の中には、本当に“俺”が居るんだな』
ヨルは少し不機嫌そうな声の調子でそんな事を言うと、俺の手越しに俺の腹へと触れた。腹とヨルの手に重なった俺の手が、酷く熱く感じる。
今は夜とは言え夏の盛りだ。抱きしめ合う俺達は、互いの肌が直接触れ合う部分に、しっとりと汗を重ね合わせ始めていた。
『あぁ!そうだ!このお腹の中のヨルは、いつも俺を励ましたり、よしよししてくれたりするぞ!』
『……なら』
俺が必死に“いつものスルー”を装い、笑って答えてやる。そうでなければ、これから口にされるであろう、ヨルの言葉への恐怖で押しつぶされそうなのだ。それこそ、幼い頃に見た“荒地の街道”の山肌を前にした時のような気分なのである。
自分で自分に“平気だもんな?”と言い聞かせて、無理やり頷かせていないと、もう怖くてたまらない。
なのに。
『もう、俺が居なくてもお前は平気だと言う事だな』
『……は?』
ヨルの声がほんの少しの不機嫌さを含みつつ、けれど、ただただ静かになった。これは、アレだ。疾風の来る前の静けさに似ている。
いや、実際に今晩は疾風の前の夜なのだが、ヨルもまた“そう”なってしまった。
なぜ。どうしてだ。
先程まで、ヨルは笑っていたのに。
先程まで、ヨルの腕は俺の背に回されていたのに。
『その通りだ。俺は村の併合が完了したら、正式に首都に戻る。後の事はオブが何とかする』
『ヨル?何を怒ってるんだ?』
ヨルの腕は俺から離れ、俺達の間を少し強めの風が駆け抜けていく。どうやら、本当に疾風が目前まで来ているようだ。
『別に怒ってなどいない。けれど、俺は思い違いをしていた自分に、少し恥ずかしさを覚えただけだ』
『思い違い?』
『あぁ。俺が帰る事を伝えたら、お前は泣くかもしれないと、そんなバカな事を思っていた』
『な、泣く?俺がか?』
『あぁ。まったく、思い上がりもいいところだ。どう伝えようかと、最近はそればかり考えていたが、とんだ取り越し苦労だったな』
『…………』
そう、吐き捨てるように口にしたヨルは、俺から数歩後ろに離れていく。夜と月を背負っているヨルはいつものように素敵なのに、俺には少し怖く見えた。なにせ、ヨルはどう考えても俺に対してガッカリしているのが分かったからだ。
俺はヨルに失望されてしまった。
『…………』
それに、話の流れでとてもサラリと告げられてしまったが、やっぱりヨルは帰るのだ。帰ってしまう。ヨルがこの村から居なくなる。俺の傍から居なくなってしまう。
俺から手を離そうとしていたのは、やっぱりこの為の準備だったのだ。心を、先に独り立ちさせようとしていたのだ。
『あ、あと。何回、こうして会える?』
『もう少ししたら、隣村との合併も話し合いにケリがつく。日数まではハッキリしないが……夏が終わる頃には、完全に終わるだろうな』
ヨルが俺の方を見ずに答える。俺はバカだから、こんな時まで腹の中で騒ぎ散らす小さなスルーを叩いて“いつものスルー”で居ようとしてしまう。
もう、癖みたいなものだ。
『ヨル!じゃあ、たくさん今の内に一緒に踊ったり喋ったり、抱擁も口付けもしないとな!たくさんしないとダメだ!さぁ、ヨル!今日もいっぱい一緒に遊ぼう!』
『……スルー。お前は強いな』
『ヨル?』
俺は数歩先に立つヨルに近づきたくて足と手を両方伸ばした。そうすれば、先程の出会い頭のように本当の“まさつりょく”のヨルから抱きしめて貰えると、そう思ったのだ。
『……ヨル?』
けれど、たった今。
ヨルは昔の間違った“まさつりょく”に戻ってしまった。
『ヨル、なんで避けるんだ!』
『……俺は、お前のように強くない』
ヨルは俺の伸ばした腕から避けるように、体を逸らした。そのせいで、勢いよく動いた俺は少しだけ前へとつんのめる。ただ、もちろん俺はそんな事で転んだりしない。自分の片足を前につき、しっかりと体を支えて踏ん張った。
人間は、そう簡単に転ぶようには出来ていないのだ。
『ヨル?なぁ、何を言ってるんだ?もう帰ってしまうんだったら、避けたらダメだろ?』
『……俺は、お前と違って……耐えられる自信がない。けれど、お前は違うな。強いから、きっと長い時の中で、どんどん慣れて、そして“俺”も過去になるんだろう』
『ヨル?』
ヨルが辛そうだ。ヨルに疾風が来ている。
けれど、その疾風は夕まぐれが来た時のような“怒り”に満ちた激しい疾風とは違う。悲しみの疾風だ。俺と離れる事が決まって、酷く悲しそうなのだ。
それは、まるきり俺と同じだ。だって、俺もヨルと離れるのが、悲しくて……痛くて仕方がない。
あぁ、いつものスルーにならないと。でないと、もっともっと悲しくなる。泣いても、悲しいのは止まらない。
“泣く”っていう、人間にしかないソレは酷く無駄な感情だと思う。だって野生動物も、それにけもる達も、俺は泣いている所を見た事がない。
人間以外の生き物は、無駄な事はしない。だから、俺もしない。
人生は短い。
無駄な事に時間を使っている暇なんて、ないのだから。
『悲しいんだな!ヨル!じゃあ、今度は俺がヨルを抱擁するから!おいで!』
『……やめてくれっ』
いつものスルーを無理やり引っ張って来て、無理やりヨルの前で笑ってみせる。そして両手を広げてヨルの前に立つのだ。けれど、出会い頭の『まったく。良い大人が転ぶぞ』と優しい声を掛けてくれたヨルは、もうどこにも居なかった。
『さっきからヨルは一体何なんだ!俺のどこが強い?俺は全然強くなんかないぞ!俺は足は速いけど、凄く弱いんだ!力も女のヴィアより弱い!なんなら、村で一番弱いぞ!』
『……お前は、本当に』
『ヨル?どうしたんだ?』
『……風が強くなってきたな。今日はもう帰ろう。スルー』
それは提案みたいな言葉の癖に、ヨルは俺の言葉なんか待つことなく、フイと俺に背を向けた。
ダメだろ。ヨル。明日は疾風できっと夜中も嵐だ。そしたら、明日は会えないんだぞ。それでもいいのか。
会える時間なんて、あと少ししかないのに。こんな訳のわからない疾風に飲み込まれてたら、もったいないではないか!
『ヨルー!ヨルーっ!』
俺は背を向けるヨルを大声で呼んだ。けれど、絶対に聞こえている筈なのに、ヨルは止まっても、振り返ってもくれなかった。いつものヨルじゃ、絶対に考えられない。
でも、この時の俺も少しおかしかったのだ。いつものスルーなら、きっとヨルを追いかけたと思う。
それこそ、全力で。
『ヨル……』
だって、俺はヨルの“こうしんりょく”なのだ。
離れて行くヨルをきっと“いつものスルー”ならば、追いかけてその腕をガシリと掴んだに違いない。
けれど、それは出来なかった。
いつものスルーは、その時、もう売り切れていたのだ。いつもは沢山あるはずのソレが、たったこれだけの時間で売り切れて、全部壊れてしまう程、ヨルが帰ってしまう事実も、ヨルが俺に失望したかもしれない事実も、たまらないものだった。