『ヨルが、居なくなる?』
俺は自身の腹を撫で、もうヨルの見えなくなった屋敷への小道を見つめた。そう、きっとヨルが居ない夜はこんな風に違いない。呼んでも返事もなく、どこを見渡してもそこにヨルは居ない。
——–俺が帰る事を伝えたら、お前は泣くかもしれないと、そんなバカな事を思っていた。
ヨルの言葉が耳の奥を突く。それと同時に、湧き上がってくる熱い奔流が土砂崩れのように、俺の中へととめどなく流れてくるのを感じる。
『っ!』
これは、いけない。とてもよろしくない感覚だ。俺はその瞬間、開かれていた掌をグゥにすると、勢いよく自分の頬を殴った。
『……いたい』
結構本気で殴ってしまった。
おかげで、口の中に血の味がする。どうやら、口の中が切れてしまったらしい。ぐうで人を殴ってしまった。でも、このぐうは人を殴る悪い手ではない。
インに習った、我慢の手だ。
泣いても無駄だから。泣いたって良い事なんて一つもないから。
泣けばもっと殴られるだけだったし、泣いても誰も助けてくれる訳ではなかったのだから。
『……ヨル』
お腹を撫でる。たくさん、よしよしをする。
俺の中にもヨルが居る。
いつも、俺を励ましてくれる。
いつも、俺をよしよししてくれる。
けれど、それは“本当”のヨルではない。俺の作った幻だ。
『……本当のヨルがいい』
俺は自分の腹を撫でながら妙に空しい気持ちになるのを感じると、その気持ちを振り払うように、一人で踊ったり歌ったりした。もうすぐ、またこうして一人の夜を過ごすのだ。
ちゃんと、一人の練習をしなければ。
俺はひゅうひゅう、と風が音を響き渡らせるくらい激しくなってきた風の中、ともかく何も考えずに踊った。
今年一番の疾風が、目の前に迫っていた。
〇
ガタガタガタ
『ねぇ、お兄ちゃん?うちは村一番のオンボロ家だから、今日の疾風で飛んで行くんじゃないかしら?』
『……怖い事言わないでよ。ニア』
『でも、そうでしょう?前の時は、屋根が飛んで行きそうになってたわ』
『……お父さん、ニアが怖い事を言う。ねぇ、ウチは大丈夫だよね?』
疾風が来た。
昼間はまだマシだったのに、日が落ちてくるにつれて風は激しさを増していった。昼間も夜みたいに暗かったのだが、夜はもっともっと真っ暗になった。
そのせいで、俺の可愛い子供達も身を寄せてその小さな体を震わせている。まぁ、確かに今にも崩れそうな程、この家はガタついているからな。怖がるのも無理はない!
『大丈夫だ!イン!ニア!壊れたら、また俺が一から上手に作ってやるから安心しろ!』
『壊れないって言ってよ!もう!全然安心できない!』
『……私、早くお嫁にいきたい』
けれど、どうやら俺の力強い言葉は、二人の可愛い子供達の不安を払拭する事は出来なかったらしい。そんな子供達に対し、暖炉の掃除を終えたヴィアが勢いよくその肩を抱いた。
『ほらほら、もう。壊れてもお母さんが守ってあげますからね。こういう時は、早く寝ましょうよ』
『……オレ、今日はニアとお母さんのベッドで一緒に寝てもいい?』
『いいわよ!インも一緒に寝ましょう!』
どういう訳か、インは俺の方をどこか不満気な様子で見てくると、これまでは何かにつけて『男同士でないとね!』と言って、俺と寝ていたのにひょいとその掌を返してきた。
『なんでだ!?イン!お父さんもインの事なら守ってやれるぞ!』
『……だって、お父さんより、お母さんの方が強いし』
『ぐっ、確かに……そうだが』
なんてこった!
今日は昨日のヨルの事もあって、一人でなんて寝たくなかったのに!出来ればヨルとどうやったら仲直り出来るかも、インに相談しようとしていたのに、これじゃあ相談も出来ないじゃないか!
まったく、余りにも今回の疾風が激しく家をガタガタ言わせるものだから、インがヴィアに取られてしまった。
そして、チラと此方を見たヴィアの勝ち誇ったような顔!なんて腹立たしいんだ!
『じゃあ、今日は私は子供達と三人で寝るわ。スルー、おやすみ』
『ぐぐぐぐ』
ヴィアはインが俺とばかり男同士だもんね!と言って仲良くする事に、いつも嫉妬しているのだ。自分だってニアとよく女同士の秘密の話をしている癖に、自分が仲間外れにされるのはダメらしい。
『お父さん、おやすみ。今日はさすがに外に遊びに行ったらダメだよ』
『ダメよ、お父さん』
『ぐぬぬぬぬ』
狭い家だ。どうせ別のベッドと言っても寝室は同じなのである。だから、別に一緒の布団でなくったってイン達の顔は見える。けれど、今日は本当にインをギュッとして寝たい気分だったのだ。
『……ふん』
俺は『おやすみ』と言って隣の部屋へと消えていった三人の背中を心底寂しい気分で見送った。
俺も早く寝た方が良いのだろうが、まだまだ眠れる気がしなかったので、籠の中で目を瞑るピーちゃんの傍へと寄った。
『なぁ?ぴーちゃん。俺の指に乗って外へ出てみないか』
『…………』
籠を開けて声を掛けてみるが、ぴーちゃんは一切目を開けず俺の方を見ようともしない。まいった、一人で居たくない時に限ってこうも誰も構ってくれないとは!
俺は籠の戸をパタリと締めると、ひゅうひゅうごうごうと激しい風音を響かせる外へと目をやった。
『畑の様子でも見に行くか……』
どうせ今布団に入っても眠れない。それなら、少し畑の様子を見に行ってみるのもアリかもしれない。
俺はノロノロと家の戸を開けて、風の吹きすさぶ嵐の中へと飛び込んだ。すると、どうだろう。雨が勢いよく俺の体を叩き、風が俺の髪の毛や服をブワブワと吹き上げる。
『うわあぁっ!』
その癇癪玉を激しく弾けさせたような豪雨が、まるで俺の心をそのまま表しているようで、思ったよりも酷く気持ちが良かった。
まるで、俺の心を代弁してくれているようだ!
『畑と、けもる達の小屋、あとは皆の畑も、このスルーが全部、ぜーんぶ!見て来てやる!みんなのレイゾンは俺が守ってやるぞ!』
俺は小さい頃、本当は疾風も雨も大好きだった事を思い出した。俺は家を勢いよく飛び出すと真っ暗闇の中、村の中を激しく駆け抜けた。
『ひゃっほう!』
その日、俺は疾風と一晩中踊った。