———–
——–
—–
『はぁっ』
その日、ザンは非常に重い気分のせいで、ベッドから起き上がる事が出来ずにいた。
おかげで、執事が彼の部屋を訪れるまで、布団に潜り込んだままという非常にだらしない醜態を晒す事になってしまった。
このような寝起き、規則正しい生活を重んじるザンからすれば、生まれて初めての事だ。
故に、部屋を訪ねて来た執事も、驚いた様子で尋ねた。
『旦那様、どこかお加減でも悪いのですか』
その問いに対し、ザンは一瞬だけ自身の体の隅々にまで、神経を巡らせる。そして、ハッキリと理解した。
『いいや。別に』
そう、どこも体の具合など悪くなどないのだ。ただ、そう。強いて言えば気持ちが非常に落ち込んでしまっている。その原因にも、心当たりがある。
『あまり、ご無理はなさいませんように』
『ああ』
そう言って部屋を出た執事を見送ったザンは、窓掛の隙間から漏れる光に目を細めた。今日は酷く天気が良い。昨日まではあんなにも激しい暴風と豪雨に見舞われていたというのに、この天気の変わりようは一体何なんだ。
ザンは彼の真骨頂ともいうべき眉間の深い皺を更に濃くすると、ベッドから起き上がり、窓掛を勢いよく開いた。
『……昨日とはえらい違いだな』
昨日、疾風がこの地方に猛威を振るった。
正直、ザンはこの村に来てたった二度しか疾風の季節を経験していない。
その疾風も、去年は非常に弱い勢力のものしか来なかったようで、ザンにとっては今回の疾風が初めての大規模な疾風と言って良かった。
『あんな疾風が、毎年来るのか……』
ザンは窓にこびりついた、どこからか飛んできたであろう葉や砂埃に目を細めた。これはこの土地の特産品でもあるレイゾンが、疾風の有無によって出荷量を大きく左右されるのも頷ける。
———七歳の頃から二十年間、俺は疾風の数を数え、気候の特徴を観測して、予想を立てて来た。
ザンの耳の奥で、普段は明るい男が、妙に静かに語る声がハッキリと聞こえた。
貧しい中、少しでも自分達の食い扶持を安定的に維持する為に、七歳の子供が必死に考えて行ってきた観測を、彼は何度も何度も心から尊敬を持って思い起こすのだ。
『……スルー』
そんな男を、ザンはどういう訳かいつの間にか愛してしまっていた。
彼の生きる姿をとても美しいと思ったのだ。スルーという男は、人でありながら、その在り方は凄まじく研ぎ澄まされており“野生”を、そのまま体現したような生き方をしていた。
——–ザンッ!何度言ったら分かるんだ!話す時は相手の目を見ろ!
ザンは、幼い頃から“人間”が大の苦手だった。
そんな彼にとって、新興の貴族としての生まれは、酷く困難で窮屈だった。常に気を張っていなければまともに立ってすらいられなかったのだ。
———-ザン、声を張れ!他人に弱みを見せるな!お前が我が家の弱みになる気か!?
———-その憲章を全部ハキハキ言えるようになるまで、夕食は抜きだからな。
———-お前、なんでそんなに暗いんだよ。俺達兄弟まで同じにみられるだろ。
———-ザン。お前、カナリヤなんて飼い始めたのか。ちょっと、俺に貸してみろよ。
———-やめろ!返せ!この子はおれのだっ!
その中、彼が唯一心を許せるのが、動物や植物などと言った“モノ言わぬ生き物達”であった。父親や他の兄弟達から、声が小さい、根暗だ、堂々としろと激しい叱責を受けながら育ったザンにとって、彼らは唯一、心のままに振る舞える存在だった。
なのに。
———あぁっ!カナリヤがっ!
そんな心の癒しさえも、貴族としての生活の中ではまともに慈しむ事すら出来なかった。大切に大切に籠の中で飼っていた、綺麗な声で歌うカナリヤも、あの大嫌いなエアによって、真っ黒に汚され、そして死んでしまった。
それから、ザンは生き物を飼う事はなかった。
もう自分には何も守れないと思ったし、なにより――。
『鳥は飛んでいる姿の方が、何よりも美しい』
ザンは汚れた窓を、そっと押し開けた。
ムワリと湿気を帯びた熱が、部屋へと入り込む。窓を開けた先には、鳥が大空を飛んでいた。
『あぁ、美しい』
ザンは目を閉じ、彼の中の美しい全てを思い浮かべた。
植物も動物も、彼らの生きるべき場所で咲き誇り、駆けまわる姿が、やはり何よりも美しいと、ザンはもう知っていた。
——–ヨルー!
目を閉じ、彼の心の中で駆けまわる生き物達の中で、唯一“人”の姿で、言葉を発する存在。それがスルーだ。体をしならせ、その通る声で美しい音律を奏でる。その目は常にキラキラと輝き、いつも世界を楽しく駆け回っている。
美しい。本当に、その姿は美しかった。
そう、ザンの中にも確かにスルーが居るのだ。
『俺は……愚かだ』
——–ヨルー!ヨルーっ!
未だに自身の背中に掛けられる、どこか悲しみを帯びた呼び声に、ザンは深く溜息を吐いた。スルーとの別れがもう間近だというのに、自身のつまらぬ嫉妬のせいで大事な一晩を無駄にしたのだ。
———このお腹の中のヨルは、いつも俺を励ましたり、よしよししてくれたりするぞ!
自分は別れがこんなにも辛いのに、スルーはそうではないのか、と。あの時は確かに思ってしまった。別れが近いというのを知っても尚、いつもと変わらぬ調子のスルーに、ザンは酷く怒りを覚えたのだ。
今まで何にも執着してこなかった彼にとって、それは本当に初めての自分でもコントロールできない感情のうねりだった。
自由に飛ぶ鳥を美しいと思いつつ、飛び去って行く鳥に手を伸ばして焦る、地を這う事しか出来ない人間。そのどうしようもなさが、あの晩の“愚かなヨル”を産んでしまった。
けれど、そうやって自分から背を向けた癖に、結局屋敷に戻ったザンを襲ったのは、激しい後悔だけだった。
なにせ、感情のコントロールの出来なかったあの瞬間とは異なり、聡明なザンには思い返せば、あの時のスルーが一体どんな顔で、どんな目で自分を見ていたかを、克明に思い出す事が出来るのだ。
——-あ、あと。何回、こうして会える?
その目に浮かぶ不安は、どこまでもザンと同じ色を帯びていた。
——-ヨル、なんで避けるんだ!
そう叫んだスルーは、酷く傷ついた顔をしていた。
——-俺のどこが強い?俺は全然強くなんかないぞ!
そう言って、ザンを見つめるその瞳は今にも泣きそうに揺れていた。
そう、スルーも決して平気な訳ではない事くらい、簡単に理解できた筈なのに。
『はぁっ、人間とは……俺とは、なんと面倒な男だ』
その結論に至るのに、ザンはさほど時間を必要とはしなかった。
それにも関わらず、昨日の大規模な疾風の襲来。
そのお陰で、ザンは自身の発言に後悔し、頭を抱えるには十分過ぎる程の時間が与えられたのであった。
『スルーに、謝らなければな』
ザンはこの二年もの間で大いに学んだのだ。喧嘩をしても、酷い事を言ってもきちんと謝れば、また共に笑い合える事を。
ザンは片手で髪の毛をかきあげると、どんな事業の、どんな大貴族と相対する時よりも引き締まった気持ちで、その背筋をピンと伸ばしたのだった。