100:金持ち父さん、貧乏父さん(100)

 

        〇

 

 

 ザンはかろうじて建っているように見える、小さなボロ屋を前に腕を組んだ。そういえば、ザンはスルー抜きでこの家を訪れた事は一度だってなかった。

 オポジットはスルーは納屋で丸まっていると言っていたが、実際に納屋を目の前にしてみれば、そこはどう考えても具合の悪い人間が籠る場所には見えない。

 

『……ふうむ』

 

 ここはひとまず家の戸を叩くべきだろう、と家の前に立つのだが、いや、やはりどこか緊張して、戸を叩くに叩けない。

 そうやって、しばらく家の前で立ち尽くすザンの前で、それまで固く閉ざされていた戸が勢いよく開いた。

 

『あっ!ザンさんだ!』

『イン』

 

 そこに現れたのは、日に日にスルーに似た顔になっていく息子のインだった。インはザンの顔を見るや否や、はっと表情を曇らせると『お父さんですか?』と、気まずそうに体をくねらせた。

 

『あぁ、スルーは居るか?』

『お父さんは……あそこ』

 

 インがその細い指で、指し示した場所はやはりオポジットの言う通り、あの小さな今にも崩れ落ちそうな程、ボロボロの納屋だった。

 

『具合が、悪いのか?』

『うん。昨日、オレがお父さんと寝てあげなかったから』

『ん?』

 

 ザンが一体何の話だと聞き返すと、インはその形の良い眉をヘタリと寄せた。その顔は、後悔の色に染められており、悲しいというよりは、どこか苦しそうだった。

 

『昨日、お父さんずっと変だったんです。なんだか、男同士オレにだけ言いたい事があったみたいなんだけど、昨日はずっと家に居て、お母さんと、ニアも居たから話せなくて。夜も、お父さんがオレと一緒に寝たがってたのは知ってたけど、疾風が怖かったから、オレはお母さんとニアと三人で寝たんです。お父さんより、お母さんの方が強いから』

『……』

 

 ザンは話を聞きながら、この子犬のような子供が母親や妹と眠る姿を想像して、妙に微笑ましい気分になった。きっと、普段ならそこにスルーも入るのだろう。

 貧しいが、本当に温かい家庭だ。

 

『だからお父さん、きっと寂しくて疾風の中なのに外に出ちゃったんです。聞いたら、けもる達と寝てたらしいから。……そのせいで、お父さん風邪ひいちゃった』

『イン。それは、君のせいじゃない』

『……ううん、オレのせいなんだ』

 

 どちらかと言えば、自分のせいだろう。そう、ザンはオポジットやインの口から出てくる“様子のおかしいスルー”という言葉に、その肩に大きな大きな罪悪感がのしかかるのを感じた。

 

『朝ね、お父さん泣いてた』

『……スルーが、か?』

『うん、お母さんに抱き着いて、かあさーんって言いながら、いっぱい泣いてたよ』

 

 インの言葉に、ザンは思わず聞き返していた。信じられなかったのだ。あの、スルーが泣く。どうにも想像がつかない。いつも笑って、どんな時も自由に駆けまわる、あの野生を体現したような男が、泣く?

 

 ザンは自分がスルーと最後に会った日の夜の自身の言葉を思い出した。

 

———-俺が帰る事を伝えたら、お前は泣くかもしれないと、そんなバカな事を思っていた。

 

 勝手に腹を立て、そのような言葉を口にした癖に、実際にスルーが泣いたと聞けば、それはそれで信じられないと思う。

 この矛盾は一体なんなんだと、ザンは自分自身に酷く戸惑った。

 

『オレ、お父さんって泣かないんだって思ってた』

『……』

『いつも笑ってて、変な事ばっかり言うから、お父さんは悲しいのなんて知らないって思ってたんだけど……そんな事ないよね』

『……その、通りだな』

 

 インの言葉はそのまま、ザンのスルーへの認識そのものだった。

 

スルーは泣かない。野生の生き物が泣かぬように、彼にはそういった感情が無いのだと、そんな愚かな事を思っていた。そんな事、ありはしないのに。

 

『お父さんも、寂しかったり、辛かったりしたら泣くよね。オレ、どうして昨日一緒に寝てあげなかったんだろう』

『……イン』

『もう、きっとお父さんは良くなるまで、うちには入って来ないんだ。だって、いっつもそうだから。でも。オレ、今日は……お父さんと一緒に寝たいよ』

 

 インの声がじょじょに揺らいでいく。

 その目も、ユラリユラリと揺れる。この泣き顔は、きっとスルーそっくりなのだろう。

 

『でも、お父さん……具合が悪くなって納屋に籠るとね、オレやニアが近づくと物凄く、怒るんだ。あの崖に行った時に怒られた時くらい……来るな!って。……ねぇ、ザンさん』

 

 ザンはあの夜、スルーにしてやれなかった事を、まずこの子にしてやる事にした。よく思い出してみれば、あの時のスルーの目も、今のインのように揺らいでいた筈なのに。

 ザンは腰に抱き着いてくるインの頭に手を置いてやると、ゆっくりとその手で頭を撫でてやった。

 

『うちの、おとうさんっ。しっ、しなないよねぇ?』

『死なないさ。その為に俺が居る』

『でも、おとうさん……たくさん、泣いてて。子供のころ、死んだ、おとうさんの、おかぁさんをよぶんだよ。そんなの、へんだよ……おとうさん、しんだら、いやだぁぁっ』

 

 そう、悲痛な叫び声と共に泣きわめき始めたインの頭を撫でつつ、ザンはインの向こうに見えるボロボロの納屋を見た。

 

——–そこに居るんだな、スルー。

 

 

 ザンは照り付ける日の光の下、一つだけ小さく決意した。

今は昼間だが、あの戸を開けたらもう“ザン”ではなく“ヨル”になる事を。

 

なにせ“ヨル”はスルーの為だけに在れる、ザンの中でも最も“在りのまま”で居られる自分なのだから。