101:金持ち父さん、貧乏父さん(101)

 

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『っ!!』

 

 俺は納屋の隅にある藁の上で蹲りながら、心臓が飛び上がる程の嫌な感覚に目を開けた。

 

『はぁはぁはぁっ』

 

 先程まで、酷く嫌な夢を見ていた気がする。

それは、俺が全てを失う、とても恐ろしい夢だった。

 

『……ゆめ、か?』

 

ヴィアも、インも、ニアも。その夢の中には誰も居なくなっていた。

誰も居ないあの小さな家で、俺はただ一人で、項を垂れ、ただ息をしていた。その目は酷く虚ろで、この世に希望なんて何一つ見いだせていない顔つきをしていた。

 

『……本当に、ゆめか?』

 

それなのに、夢の中の俺は死ぬという選択肢など無いようで、たった一人で生き続けていた。まるで、何かの鎖に縛られるように、自分の人生から逃げ出す事すら出来ないその姿は、ハッキリ言って地獄としか言いようがなかった。

 

『あ、あ……』

 

 ここは本当に、あの夢の続きでないと誰が言いきれる?

 俺は不安の中、ただ熱でぼんやりとする頭をかかえ、必死にその場から起き上がった。ただ、起き上がった拍子に、猛烈な吐き気が襲ってくる。

 

『っうぇぇっ』

 

 俺はその場に思い切り嘔吐すると、腹を抱えて再びその場に蹲った。自分の体なのに、まったく自由が利かない。そんな不自由な感覚の中で、俺は蹲りながら自身の腹を撫でた。ここには、俺のヨルが居る。

 

『よ、る』

 

あぁ、あと数えられる程しか会えないのに。俺は一体何をやっているんだ。

 俺は熱いのに、まるで体の中身は真冬の川の中のような、ままならない感覚の中、目を閉じた。

 

『スルー』

『っ』

 

 今、ヨルの声が聞こえた気がした。けれど、頭が重過ぎて俺は蹲ったまま体を起こす事が出来ない。

 

『……』

 

まぁ、いい。此処にヨルが居る訳がない。きっとコレは俺のお腹の中のヨルの声だろう。

 なら、このままでもいい。俺の中のヨルなのだ。だから、どんな格好でも俺の気持ちは伝わる。きっと、俺が辛いのを見てよしよししに来てくれたのだろう。

 

『辛いか、スルー』

『つ、らい』

『そうか』

 

 ほら、背中をよしよしされる感覚が走る。きっと、これは俺の夢なのだろう。良かった。夢は夢でも、さっきのような恐ろしい夢でなくて。

 

『スルー。悪かった』

『……な、んで。よる、があやま、る』

『俺は、お前を傷付けたな。俺を呼ぶお前を無視した』

『……っぁぁぁぁ』

 

 ヨルが余りにも優しい声でそんな事を言ってくるものだから、俺は腹を抱えたまま泣いた。泣いても意味がないのに、もう体がきついし、一度ヴィアにも泣きついてしまっていたので、もう我慢が利かなくなってしまったようだ。

 

 でもいい。父親や、男同士は強い所しか見せあわないんだと、そう決めていたが……もういい。これは俺のお腹の中のヨルなのだから。我慢するだけ無駄だ。泣いても無駄だけれど、我慢しても無駄だ。

 それなら、

 

『スルー……、悪かった。あの日の俺は自分の事しか考えていなかった』

『ぁぁぁっ、ざみじい、ざみじい。よる、いがないでぇ』

『……スルー』

 

 俺の背中に暖かいものが覆いかぶさるような感覚が走った。熱いと思っていたが、その温もりは熱くはなく、ただただ、温かかった。

 

『ごわぃ、ひどりは、もう、いやだぁっ』

 

 泣き叫ぶ。泣き叫ぶ。

こんなに激しく泣いたのはいつぶりだろう。もう、納屋の地面に涙が滝のように流れて川が出来そうだ。鼻水も出て上手く話せない。

 具合が悪くなると、俺はいつも一人で耐えてきたが、一人ではないというのはこうも心が弱くなるのか。

 

『ずっど、おれぇの、ぞばに、いでぇ。ぐるじい。づらい。うぇっ、げほっ、げほっ』

『スルーっ!傍に居る、ほら、俺は此処に居るだろう』

『うっ、うっ、うっ』

 

——–おどうざぁん、おどうざぁん。

 

 インやニアが風邪を引くと、いつもそうやって泣きわめいていたが、あれは子供だから泣いていた訳ではなかったのか。

 

 “甘えられる人”が傍に居るからこそ、あぁやって素直に泣き喚く事が出来たんだな。俺は、二人にきちんと甘えて貰えていたんだ。

 ちゃんと、“父親”が出来ていたんだな。

 

『……よる』

『スルー?』

 

 意識が朦朧とする。泣き喚き過ぎた。けれど、お陰で頭の中がスッキリした。泣くというのは人間にしかない、無駄な感情だと思っていたが、実はそうではないらしい。

 俺は必死に体を支え、腹の中のヨルが言う『顔を上げろ』という言葉に従った。

 

 きっと、顔を上げれば、そこには居る筈だからだ。

 

『よる、よる。もう、むじ、しないで』

 

 俺だけのヨルが。

お腹の中の見えないヨルじゃない。そこには、本当のヨルが居る。

 

『あぁ……もう、そんな事はしない』

『よる、よじよじじで』

『あぁ、たくさんしよう』

『よる、おで、きだないげど』

——-抱きしめて。

 

 そう口にする前にヨルは、いつもよりゆっくりと俺を抱き締めてくれた。俺の周りには、俺の吐いた汚いものでいっぱいだったし、俺自身もそうだ。

 ただ、もう俺は何も考えられなかった為、くたりとヨルに体の全てを預けた。

 

 あぁ、辛いけれど、とても幸福だ。

 

『スルー、約束は覚えているか』

『やぐぞぐ』

『互いに家族を幸せにしたら、絶対に俺はお前の元へ行く。そしたら、もう俺達は自由だ』

『う』

 

 ヨルは『居なくならないで』とか『ずっと傍に居て』という俺の願いに『わかった』とは言わなかった。それが果たせぬ約束になると分かっているからだ。

 

けれど、だからこそこの約束だけは本物だ。

 ヨルは果たせる約束しか、しない。きっと、約束は守るだろう。

 約束の為に、俺達大人は、互いにやるべき事がある。

 

『スルー、今は休め』

『……よるは?』

『お前が良くなるまで、傍に居よう。これは絶対の約束だ』

『……う』

 

 俺はヨルに抱き締められながら目を閉じると、そのまま深い深い意識の中へドプリと沈んでいった。

 

———おやすみ、スルー。愛してるよ。

 

 遠くでヨルの優しい声がする。意識を完全に手放す瞬間に感じたのは、俺の額に触れた、温かくやわらかな感触だけだった。

 

 

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 その年の秋、貧しかったアマング帝国の北部の端に、一つの街が誕生した。

その地は洋酒の材料である質の良いレイゾンを栽培する地として、有名を馳せ、村に多くの富をもたらした。

それだけではなく、その街の立地は北部の地方の大国リガーディングとの貿易中継地点として利便性の強い土地柄から、人やモノが一気にその街へと雪崩こむようになったのである。

 

利をその手にした人々の進歩の営みは、留まる事を知らぬ土砂崩れのように、人や土地を飲み込み、大きく変えて行った。

 

 しかし、その時間と変化の波は余りにも激しく、その波の底に沈む者は少なからずいた。

 

——–スルー、必ずまた会おう。俺はお前を愛しているよ。

——–わかった!俺は必ず約束を守るぞ!

 

 

 そう言って笑顔で別れた手を大きく振った片割れの男もまた、変化の波の底に沈んだ一人だった。

 

 変わり者のスルー。

 そう呼ばれた彼が、その後約束を果たし、貴族の男と再会する事は二度となかった。

 

 

 

 

 

【金持ち父さん、貧乏父さん】了

 

【前世のない俺の、一度きりの人生】

「最終章:酒は百毒の長」へ続く。