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『っ!!』
俺は納屋の隅にある藁の上で蹲りながら、心臓が飛び上がる程の嫌な感覚に目を開けた。
『はぁはぁはぁっ』
先程まで、酷く嫌な夢を見ていた気がする。
それは、俺が全てを失う、とても恐ろしい夢だった。
『……ゆめ、か?』
ヴィアも、インも、ニアも。その夢の中には誰も居なくなっていた。
誰も居ないあの小さな家で、俺はただ一人で、項を垂れ、ただ息をしていた。その目は酷く虚ろで、この世に希望なんて何一つ見いだせていない顔つきをしていた。
『……本当に、ゆめか?』
それなのに、夢の中の俺は死ぬという選択肢など無いようで、たった一人で生き続けていた。まるで、何かの鎖に縛られるように、自分の人生から逃げ出す事すら出来ないその姿は、ハッキリ言って地獄としか言いようがなかった。
『あ、あ……』
ここは本当に、あの夢の続きでないと誰が言いきれる?
俺は不安の中、ただ熱でぼんやりとする頭をかかえ、必死にその場から起き上がった。ただ、起き上がった拍子に、猛烈な吐き気が襲ってくる。
『っうぇぇっ』
俺はその場に思い切り嘔吐すると、腹を抱えて再びその場に蹲った。自分の体なのに、まったく自由が利かない。そんな不自由な感覚の中で、俺は蹲りながら自身の腹を撫でた。ここには、俺のヨルが居る。
『よ、る』
あぁ、あと数えられる程しか会えないのに。俺は一体何をやっているんだ。
俺は熱いのに、まるで体の中身は真冬の川の中のような、ままならない感覚の中、目を閉じた。
『スルー』
『っ』
今、ヨルの声が聞こえた気がした。けれど、頭が重過ぎて俺は蹲ったまま体を起こす事が出来ない。
『……』
まぁ、いい。此処にヨルが居る訳がない。きっとコレは俺のお腹の中のヨルの声だろう。
なら、このままでもいい。俺の中のヨルなのだ。だから、どんな格好でも俺の気持ちは伝わる。きっと、俺が辛いのを見てよしよししに来てくれたのだろう。
『辛いか、スルー』
『つ、らい』
『そうか』
ほら、背中をよしよしされる感覚が走る。きっと、これは俺の夢なのだろう。良かった。夢は夢でも、さっきのような恐ろしい夢でなくて。
『スルー。悪かった』
『……な、んで。よる、があやま、る』
『俺は、お前を傷付けたな。俺を呼ぶお前を無視した』
『……っぁぁぁぁ』
ヨルが余りにも優しい声でそんな事を言ってくるものだから、俺は腹を抱えたまま泣いた。泣いても意味がないのに、もう体がきついし、一度ヴィアにも泣きついてしまっていたので、もう我慢が利かなくなってしまったようだ。
でもいい。父親や、男同士は強い所しか見せあわないんだと、そう決めていたが……もういい。これは俺のお腹の中のヨルなのだから。我慢するだけ無駄だ。泣いても無駄だけれど、我慢しても無駄だ。
それなら、
『スルー……、悪かった。あの日の俺は自分の事しか考えていなかった』
『ぁぁぁっ、ざみじい、ざみじい。よる、いがないでぇ』
『……スルー』
俺の背中に暖かいものが覆いかぶさるような感覚が走った。熱いと思っていたが、その温もりは熱くはなく、ただただ、温かかった。
『ごわぃ、ひどりは、もう、いやだぁっ』
泣き叫ぶ。泣き叫ぶ。
こんなに激しく泣いたのはいつぶりだろう。もう、納屋の地面に涙が滝のように流れて川が出来そうだ。鼻水も出て上手く話せない。
具合が悪くなると、俺はいつも一人で耐えてきたが、一人ではないというのはこうも心が弱くなるのか。
『ずっど、おれぇの、ぞばに、いでぇ。ぐるじい。づらい。うぇっ、げほっ、げほっ』
『スルーっ!傍に居る、ほら、俺は此処に居るだろう』
『うっ、うっ、うっ』
——–おどうざぁん、おどうざぁん。
インやニアが風邪を引くと、いつもそうやって泣きわめいていたが、あれは子供だから泣いていた訳ではなかったのか。
“甘えられる人”が傍に居るからこそ、あぁやって素直に泣き喚く事が出来たんだな。俺は、二人にきちんと甘えて貰えていたんだ。
ちゃんと、“父親”が出来ていたんだな。
『……よる』
『スルー?』
意識が朦朧とする。泣き喚き過ぎた。けれど、お陰で頭の中がスッキリした。泣くというのは人間にしかない、無駄な感情だと思っていたが、実はそうではないらしい。
俺は必死に体を支え、腹の中のヨルが言う『顔を上げろ』という言葉に従った。
きっと、顔を上げれば、そこには居る筈だからだ。
『よる、よる。もう、むじ、しないで』
俺だけのヨルが。
お腹の中の見えないヨルじゃない。そこには、本当のヨルが居る。
『あぁ……もう、そんな事はしない』
『よる、よじよじじで』
『あぁ、たくさんしよう』
『よる、おで、きだないげど』
——-抱きしめて。
そう口にする前にヨルは、いつもよりゆっくりと俺を抱き締めてくれた。俺の周りには、俺の吐いた汚いものでいっぱいだったし、俺自身もそうだ。
ただ、もう俺は何も考えられなかった為、くたりとヨルに体の全てを預けた。
あぁ、辛いけれど、とても幸福だ。
『スルー、約束は覚えているか』
『やぐぞぐ』
『互いに家族を幸せにしたら、絶対に俺はお前の元へ行く。そしたら、もう俺達は自由だ』
『う』
ヨルは『居なくならないで』とか『ずっと傍に居て』という俺の願いに『わかった』とは言わなかった。それが果たせぬ約束になると分かっているからだ。
けれど、だからこそこの約束だけは本物だ。
ヨルは果たせる約束しか、しない。きっと、約束は守るだろう。
約束の為に、俺達大人は、互いにやるべき事がある。
『スルー、今は休め』
『……よるは?』
『お前が良くなるまで、傍に居よう。これは絶対の約束だ』
『……う』
俺はヨルに抱き締められながら目を閉じると、そのまま深い深い意識の中へドプリと沈んでいった。
———おやすみ、スルー。愛してるよ。
遠くでヨルの優しい声がする。意識を完全に手放す瞬間に感じたのは、俺の額に触れた、温かくやわらかな感触だけだった。
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その年の秋、貧しかったアマング帝国の北部の端に、一つの街が誕生した。
その地は洋酒の材料である質の良いレイゾンを栽培する地として、有名を馳せ、村に多くの富をもたらした。
それだけではなく、その街の立地は北部の地方の大国リガーディングとの貿易中継地点として利便性の強い土地柄から、人やモノが一気にその街へと雪崩こむようになったのである。
利をその手にした人々の進歩の営みは、留まる事を知らぬ土砂崩れのように、人や土地を飲み込み、大きく変えて行った。
しかし、その時間と変化の波は余りにも激しく、その波の底に沈む者は少なからずいた。
——–スルー、必ずまた会おう。俺はお前を愛しているよ。
——–わかった!俺は必ず約束を守るぞ!
そう言って笑顔で別れた手を大きく振った片割れの男もまた、変化の波の底に沈んだ一人だった。
変わり者のスルー。
そう呼ばれた彼が、その後約束を果たし、貴族の男と再会する事は二度となかった。
【金持ち父さん、貧乏父さん】了
【前世のない俺の、一度きりの人生】
「最終章:酒は百毒の長」へ続く。