「ねぇ、プラス。この子の名前は何ていうの?」
しばらく抱きしめ合う二人を眺めて、温かい気持ちになっていたのだが、足元でみゅうみゅうと鳴きながら近寄って来たけもるに俺はハッとすると、今更ながらプラスに尋ねてみた。
そうだ。この寮でこの子の面倒を見るにせよ何にせよ、名前はどうあっても必要だ。“名前”の大事さを、俺はあのマナの世界で嫌というほど思い知ったのだから。
「名前か……そうか。名前」
すると、俺の問いにプラスはそれまで抱きしめていた男の子を自身の体から離し、至近距離で男の子の顔を眺めた。光の加減でプラスの眼鏡がキラリと光り輝く。そんなプラスを前に、男の子は一瞬戸惑ったように体を後ろにそらした。
しかし、プラスはそれを追いかけるように更に顔を使付ける。距離感が凄い。
「うーん。そうだなぁ、名前は……」
「いや!違うよ!プラスに考えて欲しいんじゃなくって、あるだろ!この子の本当の名前!ね?名前、あるよね?なんていうの?」
急にペットの名前を決めるかの如く、うんうんと悩み始めたプラスに俺は酷く慌ててしまった。なにせ、プラスは俺と初めて出会った時も、俺の名前を勝手に名付けようとしてきたくらいなのだから。
———で?キミの名前は?名前が無いのか?それなら俺が素敵な名前を付けてやろう!
「ない」
「へっ?」
「名前など、ない」
俺は初めてその男の子から発せられたその声と、余りにも似合わぬ堅苦しい口調に、思わず目を瞬かせた。そして、一拍遅れて俺の脳内へと届けられた「名前なんてない」という情報に俺は自分の耳を疑ってしまった。
「……名前が、ない?」
なんだって?まさか、本当にこの子は名前がなかったのか!
“俺の愛好者に歌を披露せねば!”と言って笑って夜の街へと飛び出していたプラスの言う“愛好者”は、きっとこの子だ。そんな、ずっと一緒に居たプラスでさえ、この子の事は此処に来てずっと“可愛い子”と呼んでいる。
名前が無いなんて、なんだかまるで幼い頃の俺のようではないか。
いや、こんな俺ですらお父さんの付けてくれた「アウト」という名前は、ずっと持っていたのだ。
名前まで貰えない人生とは、この子は一体どんな人生を歩んできたのだろう。
「……うぅ」
俺はギスギスに痩せこけたその、名前すら無いという男の子に胸がどんどんしゅんとしてしまうのを止められなかった。俺は昔からずーっと、「どうしてオレばっかり!」なんて言って毎日シクシク泣いて過ごしていたが、そんなのはてんで「オレばっかり!」ではなかった。
———なんで、お母さんは居なくなったの?
———なんで、オレにはマナがないの?
———なんで、お父さんまで病気になるんだ?
———なんで、みんな俺じゃない人を思いながら俺を見るんだ?
——–なんで、ウィズはインの事ばっかり言うんだ?
——–どうして、俺ばっかりこんな目に合うんだ!
そうやって「オレばっかり!」って思っているうちは、全然周りを見ていないからそう思ってしまうのだ。落ち着いて回りを見れば、色んな人が居る。全然「オレばっかり」じゃなかったのに、昔の俺は自分が一番可哀想な人間だと思っていたのである。
「キミは、えらいなぁ」
「……」
自分で自分を可哀想がるのは、実は自分を幸福だと思っている“今”と同じくらい、気持ちが良かった。
結局、こないだのマナでの出来事だって、我慢して諦めて閉じこもる自分を可哀想に思う事で、自分を気持ちよくしていただけだったのだ。
「よしよし」
「……」
俺は過去の自分を思い出しながら、思わずよしよしと男の子の頭を撫でてやった。この子は何一つ文句も言わず、こんなにしっかり立っている。偉いったら、偉い。
「そうだ!良い名前を思いついたぞ!」
「っ!」
すると、俺の隣からプラスの明るい声が聞こえてきた。その声に、男の子が少しだけその真っ黒な瞳に光を宿すのを俺は間近に見た。
ぎょうかんの読めない俺には、そのキラリとした光が一体何を意味するのか分からない。ただ、悪い感情ではない事は確かだと思う。
「どんな名前?」
「ふふん、素敵な名前だぞ!」
そう言って胸を張るプラスに、俺はハタと思った。そう言えば、このプラスも記憶もマナもないのに、いつも笑顔だ。マナ無しという事は、それなりに苦労してきた筈だろうに、そういう所を一切見せないのは、プラスが変わっているからか、それとも――。
「今日から、お前はチビだ!小さいから!」
「はぁ!?」
俺はプラスの口から飛び出して来た余りにもあんまり過ぎる名前に、男の子を撫でていた手をピタリと止めた。そして、それは名付けられる当事者も同じ気持ちだったのだろう。先程キラリと光った瞳が、一瞬にしてくすんだ。
あぁ、プラスはただの変わり者だったようだ。
「ベストだ」
「む?」
「ベストだ」
目の前で繰り広げられるなんとも言えないやり取りに、俺は肩を落とすしかなかった。
「名前、あったんだね。良かった」
「む?さっきは無いと言ってたじゃないか!」
「ベストだ」
「……さすがに、チビは嫌だよな」
「どうしてだ!素敵じゃないか!」
ぎょうかん以前に、プラスは美的感覚がヘンテコだ。チビなんて名前、俺だって絶対に嫌だ。
「まぁ、いいか。じゃあベスト!一緒にあったかの雨で体を洗うぞ!これはアウトじゃなくて俺がする!俺だけの役目!」
「一人で入れる」
「えぇっ!ベストは小さいから、きっとあったかの雨はむずかしくて……あったかい川も作らないといけないし」
「一人でいい。あと、川は別にいらん」
「ぐふう」
「場所はどこだ」
不遜とも言えるその態度は、俺から見れば既に“夜の王様”と言って良かった。見た目は明らかに十歳程の年齢にしか見えないのに、話し方といい、態度といい、えらく落ち着いている。
きっと、この子の前世は名のある国の王様か、どこかの立派な貴族様だったに違いない!そうだ!きっとそう!
だって、偉そうな所もウィズそっくりなのだから!
「ふふ。シャワー室はこっちだよ」
「……」
笑う俺にベストは、何故か酷くお似合いに見える深い眉間の皺を刻み付け、チラと俺を見上げて来た。よく見れば、この眉間の皺もウィズそっくり。もしかして、この子は小さいウィズなのかもしれない!
そう思うと、先程まで少しとっつきにくいと思っていたこの子が、心底可愛らしく感じられて仕方がなかった。
「俺はアウト。よろしくね。ベスト」
「……あぁ」
「あーっ!アウトが俺よりも先にベストと自己紹介をした!ドロボーだ!ドロボー!俺の許可なくアウトがベストとの最初の自己紹介を取った!このドロボー!」
「あぁ、もう。うるさいなぁ」
「……」
シャワーを断られてその場に崩れ落ちていたプラスが、今度は俺に向かって「ドロボー」と叫び散らす。
ついでにダンダンと地団駄を踏むものだから、近くに居たけもる達が「みゅうみゅう」と鳴きながら逃げて行ってしまった。
「ぐう!けもる達まで!」
みゅう。
「けもる?」
「そうだよ。うちに居る俺達の家族。あれがけもる、こっちがけもこ、けもな……」
「けもる、けもこ、けもな……」
俺がちょうど共有スペースに居た三匹の毛のモノ達を紹介してやると、ベストは何か懐かしいモノでも見るような目つきで、そのふわふわ達を見つめる。
「ヘンテコな名前だろ?全部プラスが付けたんだ」
「ヘンテコじゃない!全部素敵だ!素晴らしい俺が付けたんだから、全部素敵なんだ!」
「あぁ、もうそれはいいよ。早くベストにシャワーを浴びさせてやろうよ」
「俺がシャワー室に連れて行くぞ!それは俺の役割!」
そう言ってプラスがベストの手を掴んで小汚い寮の通路を駆け抜けていく。そんな二人の後ろ姿に、どうしてだろう。
俺は腹の奥底に妙な感覚が走るのを感じたのであった。