280:スルーさん

 

 スルーさん。

 その日、俺はその名を初めて耳にした。

 

「スルーというのは、インの父親の名だ」

「インの、お父さん」

 

 ウィズの言っていた俺の知らないその名前は、どうやらインの“お父さん”の名前らしかった。まさか、ここへ来てインのお父さんまで登場してくるとは思ってもみなかった。

 

 ウィズは少しだけ記憶を辿るように視線を巡らせると、自身の手を口元へと持っていった。

 

 どうやら、“スルーさん”の事を思い出そうとしているらしい。

 

「俺の、いや。オブか。……オブの、インが死んでからの記憶は、正直……曖昧というか、意識が薄い。だから、インが死んだ後“あの人”がどうなったのかを、俺は知らない。ただ、」

「ただ?」

 

 ウィズは隣の部屋の壁を見ながら、少しだけその目を細めた。俺達の今居る部屋のすぐ隣には、プラスとベストが居る。

 

「あの人は……確かに、インの父親だったという事だ」

 

 ウィズの静かな言葉の中には、それまでオブと共に生きて来たウィズの様々な記憶や感情が込められていた。きっとその中には、インの父親でもある“スルーさん”との記憶も、たくさんあったに違いない。

 

 “アウト”にはない、インや、スルーとの記憶が。

 

「インがそうだったように、きっとあの人も自分の人生に後悔なんて残さなかったんだろう。記憶が無いと言われて、むしろ俺はスッキリした」

「……そっか」

 

 ウィズの言葉に、俺はプラスの突き抜けるような笑顔を思い出した。

俺は、その“スルー”には会った事はないのだが、どうなのだろう。プラスも俺と同じように、他の誰かに挿げ替えられ、自分自身を見て貰えぬもどかしさを抱えて生きて来たのだろうか。

 

———俺か?あぁ、俺はマナ無しだからな。前世の記憶なんてないのさ!お陰で身軽で仕方がない!そのお陰で、俺はいつだって自由に踊れる!さぁ、アウト!記憶のない者同士、共に今夜は踊り明かそうじゃないか!

 

 俺の頭の中に、プラスと初めて共に過ごした日の夜が駆け抜けて行った。それこそ、踊るようにクルリクルリと俺の頭の中を笑顔のプラスが踊りまわる。

 

 そう、プラスは確かに言ったのだ。記憶がない事を“身軽”だと。

 それは“前世の記憶”の重みを知り尽くしている人間だからこそ口に出来る言葉だ。そして、“今の俺”だからこそ、その言葉は真に理解する事ができる。

 

——–インに会いたい!会わせてくれよ!俺を!インにっ!

 

 前世の記憶は希望でもあり、呪いでもある。

 

 その事を、俺はウィズ達に出会い、そして理解した。それまでの俺は、むしろ記憶がない事こそ人生の足枷だと本気で思っていたのだ。

 

 けれど、実際には違う。

 

——-また子供を作りましょう!今度こそ“あの子”よ!

 

 俺の記憶の奥で、未だに悲痛な声で叫ぶ人達がたくさん居る。

 本当なら、全てから解放されて新しい人生を生きる筈だったのに、この第一輪目だけは、それが許されない。

過去の後悔を引継ぎ、その後悔を消す為に生きねばならないのだ。

 

———あははっ!アウト!お前は本当に、俺と同じくらい可愛いよ!

 

 前世の記憶こそ今の新しい人生を縛る足枷になる事を、プラスはもしかしたら本能的に理解しているのかもしれない。それとも、俺のようにプラスにもそれを思い知る“何か”があったのか。

 

 それは、アウトである俺には分かりようもない事だ。

 

「じゃあ、もしかしたらプラスの中にも……スルーの残滓が居るのかな」

「さぁ。こればかりは分からん。お前の中にインが居るように、もしかしたら居るのかもしれんが、お前と違って確かめる術はないからな」

「そっか」

 

 ウィズの言葉に、俺は自然と自身の手を下腹部へとやった。そこは、いつ触れても沢山の暖かさを俺に与えてくれる。その中の一つが「やぁ、アウト。今日は良い日だったかい?」と尋ねてきているような気がする。

 

「もし、本当にプラスの中にスルーが居るんだったら……プラスのお腹にも、スルーが笑ってられる広い部屋があればいいなぁ」

「アウト。それは、なかなか難しいだろう。自覚がないだろうが、お前のマナの器は特別なんだ」

 

 ウィズの言葉に、俺はハタと目を瞬かせた。そういえばそうだった、と。

俺のように自身の器に複数のマナが共存する事は、普通は出来ないらしいのだ。鍵を手にしなかったマナは、その残滓だけを残し、鍵を持ったマナから閉じ込められる。そして、その場所から一生出る事は叶わなくなってしまう。

 

 それが、消す事のできないマナの生存本能だというのだ。

 

「そうなのかなぁ」

「そうだ」

 

 でも、俺は何か特別な事をしている感覚は、何一つない。やっている事と言えば、夢の中で夢だった酒場を開いている事くらいだろうか。

 夢の中で、夢の酒場……なんだか、訳がわからなくなってきた。

 

「うーん、そうは思わないけどなぁ」

「これだ」

 

 俺の言葉に、ウィズが軽く苦笑してみせた。そして、ソッと俺の腹に置かれた手の上に、自身の掌を重ねて来た。

この中には、今やウィズの半身であるオブも居る。「ひさしぶり」と、挨拶でもしているのだろうか。

 

「色々と難しいな、みんな」

「そんな事より、アウト」

「ん?」

 

 俺は難しい事を考え過ぎて、若干頭がぼーっとするのを感じると、いつの間にかウィズがいつもの眉間の皺をその顔に復活させていた。

 どうやら、ウィズは俺に不満があるらしい。ならば、俺は聞かねばならない。これは、俺達のたくさん決めた約束事の一つだ。

 

「なぁ、本気であの子供を引き取るつもりか」

 

 あの子供。

ウィズの言っている“子供”とはどう考えてもベストの事だろう。俺は、どこかウィズにそっくりな寡黙なあの少年を思い出して、思わず笑ってしまった。

 

——-名前などない。

 

 むしろ、俺達よりもウィズの方があの子の血縁者のように見えるのに。

 なんともちぐはぐな事だ。

 

「うん、ひとまずうちの寮で引き取るよ。どうせ、プラスが離そうとしないだろうし。愛好者なら仕方ないね」

「愛好者……」

「それに、ベストもあんな顔してるけど、プラスの事は好きみたいだよ?プラスが抱きしめてあげると、ちょっと嬉しそうな顔をするし」

「……」

 

 俺の言葉にウィズの眉間の皺が更に濃くなる。これはきっと「物事を簡単に考え過ぎだ!」とでも言いたいに違いない。

 

「ふうむ」

 

 さて、どうしたものか。

 ウィズに本気で反対されるのは非常に面倒なので、俺はここで一つ手を打つ事にした。最近、俺はちょっとだけウィズの扱いが上手になってきたのだ。

 

 ウィズが俺の思考を“どーき”してるように、俺だってウィズと“どーき”しているのだから。

 ウィズが何を言われたらチョロくなるかなんて、全部お見通しだ!

 

「ふふ。あの子はウィズと似てるから、俺はウィズと俺の子供だと思って可愛がることにしたんだ!だから、ウィズも一緒に」

「……アウト。お前、今俺の事を、片手で転がそうとしているだろう」

「あれ!?」

 

 ウィズのスンとした表情に、俺は驚きの声を上げてしまった。

どうやらウィズには俺の考えている事などお見通しらしい。さすがウィズだ。ヴァイスと同じくらい俺と“どーき”してしまっている。

 

「アウト、お前は一つ勘違いをしているようだから、今ここで正しておく」

「は、はい」

 

 ウィズがいつの間にか添えていた自身の手で、俺の手を力強く握り締めた。ギリと音がしそうな程の力で握り締められるその手は、ウィズの力強い視線と共に、俺の体の自由を全て奪ってしまった。

 

「な、なに?」

 

 知っている。こういうのを、蛇に睨まれたカエル、というのだ。

 これも、アボードが教えてくれた。蛇がウィズで、カエルという生き物が俺という事だ。カエルというのを、俺は見た事がないのでどんな生き物かは分からないのだが、ともかく、今の俺のような生き物なのだろう。

 

「俺はお前にとって絶対的に唯一かつ一番でないと気が済まない」

「う、うん」

「子供など出来て、お前が俺以外を優先する事などあったら、俺は自分の血を分けた子供でもどうするか分からん。その事を念頭に置いて、お前はあの子供の面倒を見るんだな」

 

 こわい!

 ウィズの目は本気も本気だ。ウィズは俺の事を愛し過ぎて、誰であっても俺がウィズ以外を一番にするのを許さないらしい。

まったく、ウィズはどこまで俺を愛すれば気が済むのだろう!

 

「俺、男で良かったよ」

「あぁ、俺もそう思う」

 

 俺とウィズは互いに向かい合いながら、心の底から深く頷き合った。そして、そのままウィズによって唐突に塞がれた唇に、俺は目を閉じた。

 隣にプラスとベストが居るなぁとか、色々と思う所があったが、まぁ、いいかと俺は思った。

 

——-その事を念頭に置いて、あの子供の面倒を見ろよ。

 

 そう言ったウィズのスンとしつつも少し弾んだ声に、俺はやっぱり思ったのだ。

 

 ウィズはやっぱりチョロイなぁって!

 

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