287:ビィエル本を君に

 

「じゃあ、ベスト。ウィズの言うことをちゃあんと聞くんだぞ!」

「わかった」

「ウィズ、俺達仕事に行ってくるな。ベストをよろしく」

「あぁ」

 

 その日から、俺達の毎日は“余裕を持って”が一大目標になった。

 これまでのように、ギリギリに起きて、ギリギリに職場に駆け込むようでは、子育てなんか出来ない。ちゃあんと、時間を逆算して、何時に起きて、何時までに出発するというのを守らなければならないのだ。

 

「「いってきまーす!」」

 

 俺とベストはまるでウィズの酒場が自分達の家であるかのように、ベストを送り届け二人に手を振った。

 手を振ると同じような表情を浮かべた大きいのと、小さいのが、これまた同じように此方に小さく手を振り返してくれる。

 

「「あぁ」」

—–いってらっしゃい。

 

 口にされはしないが、似たような大きいのと小さいのはそれぞれ「いってらっしゃい」を含んだ「あぁ」という返事をくれた事に、俺とプラスは大いに満足して職場へと歩き出した。

 

「見送りがあると、なんだか嬉しいな!アウト!」

「そうだな!週初めだけど、なんだか頑張れそうだ!」

 

 なにやら、物凄く今日は頭がすっきりとしている。

それはどうやら、俺の隣を歩くプラスも同じであるようで、いつものように何度も眼鏡を外して目をこする事もない。

 もしかしたら、ベストを送り届ける時に、一緒にウィズから朝ごはんを食べさせてもらったせいかもしれない。

 

 朝ご飯をウィズの所で一緒に食べる事。

 これは、ベストを預かって貰う為のウィズから差し出された絶対条件の一つだ。

 

「朝ごはんって大事だったんだなぁ」

「そうだな。全然お腹は空いてなくても、食べた方が元気になるな!素晴らしい!」

 

 ベストが来てくれたお陰で、俺達独身男二人は、非常に健康的な生活を手に入れたのである。

 

「なぁ、アウト」

「ん?」

 

 余裕を持って職場へと向かう道すがら、プラスが俺に声をかけてきた。その声はどことなく静かで、いつものプラスとは少し違う声色だ。

 

「ベストは、学窓へは行きたくないのだろうか」

「……行きたくなさそうだね」

「どうしてだろうな」

 

 プラスが真っ青に広がる夏の空を見上げながら、その目を細めた。プラスが学窓へ行きたくない理由。それは一度目の会議を終えた後、理由じみた事をベストが口にはしていた。けれど、それがどんな理由なのかは、俺にも分からない。

 きっとウィズなら分かるのかもしれないが。

 

「なぁ、プラス。本当に眠る前のこと、覚えていないのか?」

 

 無駄だとは思いつつ、俺はプラスに何度目ともしれぬ質問をぶつけてみる。ベストが学窓へ行きたくない理由は俺にも分からない。けれど「行きたくない」とベストは一度、ハッキリ意思表示はしているのだ。もちろん、プラスの目の前で。

 

———勝手な事を言うな!俺はもう、何も学ぶ気はない!

 

一度目のあの時に。

 

「悪いな、アウト。本当に、俺は覚えてないんだ。お前らに言われなかったら、覚えてない事にも気付かなかった」

「そっか」

 

 やはり、プラスは何も覚えていない。そして、覚えていない事を知ったプラスは「またか」と、どこか諦めたように口にしたのだ。

 どうやら、こうして記憶が飛ぶ事は、これが初めてではないらしい。

 

——–きっと、俺は頭がおかしいんだろうな!

 

 そう言って笑ったプラスに、俺は胸がきゅうっとなるのを止められなかった。だって、それってプラスが自分で最初に思った事ではない筈なのだ。

 

 俺もマナ無しだったから分かる。

 周囲と違うとか、当たり前の事が普通に出来ないという事は、それだけ周囲からの苛立ちや嘲笑を受けやすい。きっとその時に言われた言葉がプラスの中に深く突き刺さって、まるで最初から自分がそう思っていたかのように錯覚しているに違いない

 

「ベストが学窓に行きたくない理由とか、本当はどう思ってるのか……俺には分からない。分からないけど、頑張って分かりたいから、俺は出来る限りベストをちゃんと見てあげようと思うよ」

「アウト……」

 

 俺は“お父さん”から“アウト”としてずっと見てもらえたからこそ、ここまで大きくなれたのだ。マナ無しでも、ちゃんと働けてるし、友達だっている。

 

——-お父さん!見てた!?

——-ああ!見てた見てた!上手に出来たじゃないか!アウト!

 

「プラス。ベストは俺達二人でちゃんと育てような」

「うん!そうだ!そうだそうだ!アウトの言う通りだ!俺はまだベストについてちっとも分からない愚図だけど、ちゃんと分かるように頑張るぞ!」

 

 愚図。

 ベストは普段は明るくて自分をたくさん素晴らしいとか可愛いとか言うけれど、急に駆け抜けるように自分を卑下する。そういう時、俺はなんとなくバイやウィズが、俺に「お前はそんなんじゃないよ!」と必死に伝えてくれていた時の事を思い出すのだ。

 

「プラスは愚図じゃないよ。素晴らしいよ」

「そうか?」

「うん」

「そっか!アウトも素晴らしいし可愛いぞ!」

「うん!」

 

 俺の言葉を受けて、いつものニコッとした笑みを浮かべるプラスに、俺は鞄の肩掛けをギュッと握り締めた。

 自分の好きな人が、自分を卑下するのは、聞いていて余り気持ちの良いものじゃない。とても悲しくなってしまう。

だから、俺も気を付けようと思った。自分でだって、自分を傷付けたらいけないのだ。

 

「なぁ、プラス?ベストの事を知るには“ぎょうかん”を読む必要があると思うんだ。だから“ぎょうかん”を読むのにぴったりな本で、これからプラスも訓練しよう!」

 

 俺は鞄の肩掛けの紐から手を離すと、ゴソゴソと自分の鞄の中へと手を突っ込んだ。確か、今はとっておきの“あの本”があった筈だ。

 

「“ぎょうかん”?それを読むと、俺もベストの気持ちが分かるようになるのか?」

「なる!訓練すれば、きっとなる!だって、アバブがそうだろ?」

「確かに!アバブは物凄く鋭いもんな!」

「そう、アバブは前世の頃から物凄い訓練を繰り返してきたから、あぁなったんだ!俺も、ウィズの気持ちが分かるように、今訓練中なんだよ!」

「おおっ!俺も訓練したい!アウト、その“ぎょうかん”を読む訓練の方法を教えてくれ!」

 

 隣で興奮気味に俺に言い募ってくるプラスに、鞄の中に突っ込んでいた俺の手がお目当てのモノを掴み取る事に成功してくれた。

 

「これ!これ!」

「どれだ!どれだ!」

 

 そう、コレだ!

今はコレがとても俺の中で波を起こしている、とっても素敵なビィエル本である!

 

「金持ち貴族かける貧乏人!立場や身分や育った環境が違っても、分かり合えるっていう素敵なビィエル本だ!」

「おお!金持ちと貧乏人が分かり合えるなら、きっと俺とベストも分かり合えるな!」

「うん、もちろん!きっと分かり合えるよ!」

 

 俺はワクワクした。なにせ俺とウマの合うプラスの事だ。きっとこのビィエル本も気に入ってくれるに違いない。

 そう、俺が大通りの真ん中でプラスに見せてやるために、パラパラと教本のページを捲ってやっていると、プラスがふと俺に向かって尋ねて来た。

 

「なぁ、アウト。ところで、ビィエルってなんだ?」

「あぁっ、俺とした事が!まず、初心者にはそこからだな!」

 

 そうだ。そうだ!初心者は、まずそこからだった!

 俺は、自分の後に来た新人に全てを教え込んでやるぞ!という気持ちで胸をひゅんひゅんと飛び回らせると、今日の俺の目標を定めた。

 

「まずは初心者のプラスにビィエルが何かって所から教えてやる!」

「よろしく頼む!アウト!」

 

 今日の俺の役割は、プラスにビィエルが何たるかを教える事である!ソレだけ出来ればもう、今日はおしまい!