「ふふっ」
その聞き慣れない笑い声のする方へと目をやると、そこにはプラスの隣で、口元に手を添えて上品に笑うベストの姿があった。そして、ベストはその笑みの隙間に、本当に小さな声で何か、台詞をなぞるような言葉を口にした。
「“息子が泥棒扱いとは頂けんな”」
「っへ?」
思わず俺が聞き返すように驚いた声を上げると、その瞬間ベストは「なんでもない」と、すぐにその笑みと言葉を無かった事にした。
「……俺は、本当にどうしようもない」
先程までは愉快そうに、そして、どこか懐かしそうに笑っていたのに、今のベストの表情には、小さな後悔の色すら浮かんでいる。そんなベストの姿に、それまでプラスに対して臨戦態勢を敷いていたウィズも、何か思う所でもあるのだろう。
もう、その眉間に皺は刻まれていなかった。
「ベスト?さっき笑ったのはベストか?それに、なんて言ったんだ?あんまり声が小さいから聞こえなかったぞ」
「……いや」
プラスは俯くベストに視線を合わせるようにその場に屈みこむと、首を傾げてプラスの目の前へと自身の顔を近づけた。それはまるで、傍で見ている分には口付けをする仕草のように見えて、ドキリとしてしまう。
「ベスト。ベストの笑った顔はとても素敵だったぞ!いや、素敵の上の上の、上の、月まで届く位の素敵だ!」
「……」
そう言って大いに笑うプラスの言葉に、ベストは俯いていた顔を勢いよく上げると、見開かれたその真っ黒で大きな瞳をユラリと揺らした。
「お前は……」
「ん?」
ユラユラと揺れるその瞳に、俺は少し前までのウィズを見た気がした。俺を通して、遠い遠い昔に離れ離れになってしまったインを想う、ウィズの目を。
「どうした?ベスト」
ベストは何も分からないといった様子で首を傾げるプラスに、何度か口を開けたり閉じたりすると、そのまま息を深く吸い込んだ。
「プラス」
——スルー。
俺はベストがプラスの名をまともに呼ぶのを初めて聞いた気がした。
しかし、俺には分かる。ぎょうかんの読めない俺だけど、この声色にはやっぱり聞き覚えがあるからだ。
ベストは「プラス」を呼びながら、その心の中では「スルー」を呼んでいるのだ。本当に、ベストはどこまで行ってもウィズそっくりだ。
だとしたら、自分を通して別の誰かを見られているプラスは今、一体どんな気持ちなのだろうか。
あの時の俺と同じ葛藤を抱いているのか。それとも、全く何も気付いていないのか。
「夏季休暇が明けたら、俺を学窓へ入れてくれないか」
「え、でも……ベストは勉強は嫌なんだろう?別に無理する必要はないんだぞ?」
「いいんだ。もう、お前に、プラスに会ってしまったから……俺はきっと無力で居る事に耐えられないだろう」
「ベストは賢過ぎて、時々、俺には分からない事を言うなぁ」
「あぁ、プラスはそれでいい。もう、俺はお前の望みを叶える為だけに生きる」
「そうなのか?」
「そうだ」
コツコツと、まるでつま先で小石を蹴り合うように交わされる二人の会話に、俺は自然とウィズの隣に向かっていた。なんだか、二人を見ているととても堪らない気持ちになったのだ。
ベストが今しがた口にした“お前の望み”という言葉。この“お前”はベストにとって、今のプラスが“スルー”足り得るからだ。
「じゃあ、ベスト。今度は俺とも服を買いに行こう。服だけじゃなくて、ベストの全部を」
「あぁ、もちろんだ」
でも、プラスは何も覚えていない。
スルーだったのかどうかも分からず、もしスルーだったとしてもスルーとプラスは別の人間なのだ。
「学窓に行く準備もしなくちゃならないからな。全部、それは俺がやるんだ。ベストの全部は俺の“役目”。もう誰にもドロボーさせない」
「あぁ」
プラスにしては静かに紡がれるその言葉達に、ベストは決意を秘めたような表情で深く頷いた。
「……」
ねぇ、ベスト。
もしも、別に記憶のあるホンモノの“スルー”が現れても、プラスとダンスを踊り続けてあげられる?
“プラス”の望みの為だけに、生きていく事ができる?
“プラス”を偽物扱いしないであげられる?
俺は、スルーじゃなくてベストの友達だから、何かあったら俺はプラスの手を掴みに行く。ベストではなく、プラスの手を。
そんな俺の気持ちが、きっとウィズには伝わったのだろう。いつの間にか、俺の握り締められた拳には、ウィズの温かい手がそっと添えられていた。