293:”あれ”は違う

 

 

「げほっ、けほっ!!っはっぁっ、っははぁっ」

「ベスト!?」

 

 その咳き込みの主は小さな小さなベストであった。先程まで、ウィズと淡々と、けれど満足そうに勉強に励んでいたベストが、今や手にしていたペンを机に投げ出し、背中を丸めて咳き込んでいる。

 

「っく」

「あわわわわ!」

 

 そんなベストに、それまで俺達と【金持ち父さん貧乏父さん】の勉強会に真剣に取り組んでいたプラスが、ガタリと椅子から立ち上がった。その眼鏡の奥にある瞳は大きく見開かれ、ユラユラと揺れている。

 

「どうしたんだ!?ベスト!」

「な、なんでも、ない」

「なんでもない訳あるか!?顔が真っ赤じゃないか!」

 

 すぐさまベストの元へと駆け寄ったプラスが、ベストの頬を両手で挟み顔中を無遠慮に触れ回っている。そんな二人の光景を、ウィズはどこか生暖かい目で見ているだけで、特に止める素振りは見せなかった。

 

「あぁっ!顔が物凄く熱い!これはきっと風邪を引いたんだ!風邪を引いたら、しっかり寝ないとダメだ!」

「いや、だから……俺は別に」

「ウィズ!ベストを休ませなければ!風邪は辛いんだ!」

「勝手にしろ」

「おう!勝手にするぞ!」

「おいっ!プラス!俺は平気だと言っているだろう!」

「こんなに顔を真っ赤にして何を言う!体もポカポカじゃないか!」

「それは子供だからだ!」

 

 ウィズの返事にプラスは頷くや否や、椅子に腰かけていたベストを抱き上げ、あれよあれよと言う間に騒ぐベストを連れて酒場の奥へと駆け出して行った。

酒場の戸が閉まる直前。俺が最後に見たのは、顔も耳も真っ赤にしたままプラスの肩に爪を立てるベストの姿だった。

 

 ぎょうかんの読めない俺でも分かるのだが、ベストは風邪なんか引いちゃいない。あれは照れているだけだ。

 何でベストが照れたのか、それは俺にも分からないが。

 

「何なんだ、一体」

 

 バイの当然とも言える呟きが、シンとする酒場にじんわりと響いていく。

 

「プラスは、ベストの事となると、いつもよりもっとぎょうかんが読めなくなるんだ」

「……へぇ」

 

 バイの目が一瞬意味深に細められ、二人の去って行った戸を眺めている。そんな俺達のテーブルに、それまでベストに勉強を教えていたウィズが教本を片手に俺の隣へと腰かけた。

 

「まったく……お前らはまたおかしな本を読んで。なんとなく予想はつくが、今度の作者は誰だ?」

「原作の小説はヴァイスで、アバブが今マンガにしてくれてる!」

 

 俺はパラパラとヴァイスの書いた【金持ち父さん貧乏父さん】の小説と、まだ序盤のみだが綺麗にマンガになったビィエル本を並べ置いた。

 

 俺は小説よりもマンガの方が好きなので、出来ればアバブには早くマンガにして欲しい。でも、お話の続きが気になった俺は、人生で久々に文字で書かれた本も読む事にしたのだ。

 

「ヴァイス……やはりアイツか」

「あー、ヴァイス。コレ、金持ち父さんの視点で書いてくれないかなぁ。だったらもっと分かりやすいのに」

「アウト、それだとお前の言う行間を読む訓練にならないのではないのか?」

「……確かに」

 

 ウィズのもっともな指摘に、俺はぐうの音も出なかった。そうだ、これは訓練なのだ。それなのに、俺は楽ばかりしようとして……まったくダメな奴だ。

 

 それにしても、この“ぐう”とは何だろう。お腹の音だろうか。

 

「バカかよ、ウィズ!受け視点で書かれたビーエルで、攻めの視点が読みたいってそりゃ、読者にしてみたら当たり前の事だろうが!これだから、お前は虫以下なんだよ!」

 

 バーカ!

 そう言ってウィズに向かって舌を突き出すバイに、ウィズはそれまで一切浮かべられていなかった眉間の皺を一気にその顔に生み出した。

 そりゃあそうだ。誰だって虫より下なんて言われたら良い気分はしない。それに、ウィズは俺の自慢の恋人なのだ。だから、俺は何度だって言ってやる。

 

「バイ!ウィズをそんな風に言うな!俺の恋人は、」

「アウト……!」

「虫以上だ!」

「アウト……」

 

 一瞬、明るくなったウィズの声が、しかしすぐにまた深く沈んだ。あれ?この感じは、俺の気持ちが上手くウィズに伝わっていないのではないだろうか。

 

「ウィズ。俺はウィズの事を、虫より下なんて思っちゃいないんだ。自慢だよ。馬鹿じゃないし、虫以上!」

「……わかっている」

「ぶはっ!マジで笑うんですケド!」

 

 誤解されないようにと重ねた俺の言葉は、けれどやっぱりウィズの気持ちをひゅーんと空にまでは浮上させてはあげられなかったようだ。いや、言葉を賭すって本当に難しい。

 

「あー、ウィズ。俺はお前が苦労性攻めの型を確立して一生その身にやつしてくれるんなら、今までのアウトとお兄ちゃんへの所業も許してやらんでもない」

「俺はお前の許しなど乞うてなどいない」

「っは、もうお前は俺の中では一生虫以下だ!」

 

しかし、生み出したと同時に、ウィズは何かを耐えるように指で眉間を抑えつけると、はぁっと深く溜息を吐いた。

 

「……お前のその調子なら。プラスの件は、事前にアウトから聞いていたようだな」

「プラスの件?なんの事だよ」

 

 二人のやり取りに俺は一気に心臓がキュッとなった。そう、俺はバイにプラスの件は一切事前に伝えたりしていないのだ。

 

———いいか?アウト、バイには事前に必ずプラスの件は伝えておけよ。

 

「おい、アウト」

「ぐう」

 

 バイのポカンとした表情と、現在、俺の浮かべているであろう苦々しい表情に、行間を読む事に長けたウィズは全てを理解したようだ。

 ウィズの厳しい目つきが、俺を貫く。

 

———アウト、あれほど言ったのに忘れていたのか?

 

 俺のお腹の中のウィズも、現実世界のウィズ同様に呆れた声を上げてくるのだから堪らない。

 とりあえず、俺は一旦“ぐうの音”を先に出しておく事にした。お腹は空いていないので、自分の口で。ぐうの音を出しておけば、少しは現状がマシになるかな、なんて意味のない期待を添えながら。

 

「まぁ、アウトからは何も聞いちゃいねぇけど、プラスの件でウィズの言いたい事はなんの事だか分かるよ」

「だろうな」

 

 バイは急につまらなそうな表情を浮かべると、テーブルに肘をつき、パラパラと【金持ち父さん、貧乏父さん】の本のページを捲る。

 

 パラパラ、パラパラ。

 そして、最後までページを捲り終えたバイがその、傷だらけの、けれどスルリとした形の良いてで本をパタリと閉じた。

 

「プラスは俺達のお父さんじゃねぇよ」

「……なに?」

「ウィズ……いや、ここでは一応オブって呼んでやるよ。じゃないと、アウトが仲間外れみたいになるから。これはもう、ただの昔話だ」

 

 バイにしては、どこか静かで淡々とした言葉が紡ぐ。バイのこんな冷めたような声は、なかなか聞いた事がない。そして、その瞬間バイの顔は完全に“ニア”になった。

 しかも、ニアはニアでも幼い女の子のニアではない。

 

一人の大人の女性の、ニアだ。

 

「オブ、貴方は俺達家族の最後を見届けてないから知らないでしょうけどね」

「……」

「お父さんは、インとお母さんが死んでから完全に変わったわ」

 

 お父さん。

 スルー。

 インとニアの父親。

 

 それは――。

 

———俺はね、お父さんが何を言いたいか分かってた。なんでって……そりゃあ、男同士だもん!わかるよ!だから、俺も、笑って「いいよ」って言った。お父さんなら、言わなくても俺の気持ち、きっと分かってくれてたと思うから。

 

 インに、一人で死ぬように宣告した人だ。

 

「私には分かるの。お父さんはお兄ちゃんやお母さんを一人ぼっちで死なせた事を、とても後悔してた。もしあれが、お父さんで……全てを忘れて笑ってられる今を、本気で望んでいるのだとしたら――」

 

――もう、あの人の前世が何でもいい。俺はアイツをプラスとしか見ないぜ。

 

 そう言って俺を見た真っ赤な眼鏡の奥に潜むバイの目の奥には、深い、深い後悔の色がどんよりと浮かんでいた。

 

 その目の後悔の示す相手は果たしてだれなのか。

 俺に“お兄ちゃん”を押し付けてしまった過去に対するものか、それとも。

 

「あーぁ。アウトの言う通りだ!前世の記憶ってホントめんどくせぇな!」

 

 オブも、そしてオブの父親も知らないスルーのその後。

その誰も知らないスルーと共に数年間を過ごしたニアだからこそ向けられる、自身の父親に対して向けられるものなのか。

 

「お父さん、私、また踊るのが下手になっちゃったわ」

 

 今も尚、ニアという足枷が、バイのダンスを邪魔している。

 

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