『アウト、子育てって大変らしいからな。最後まで責任を持って頑張れよ』
昨日の夜、バイは店から出て行く際、うっすらとした笑みを浮かべて俺に手を振った。子育ての大変さを“らしい”としか口にできないバイは、我が子を産み落としてすぐに亡くしてしまい、その絶望から自身で世を去る事を決めた、一人の悲しい女の人だ。
経験したかったであろう、その大変さ。
きっとバイは今も完全に吹っ切れた訳ではない筈なのだ。けれど、今の自分にはどうしようもない。
だからこそ、無理に前を向いて“今”を歩いている。
——–俺は今はもう“バイ”だ!ニアじゃない!
バイは頑張っている。本当の本当に、頑張っている。だからこそ、潔くて最高に格好良い。俺の事も最初は“お兄ちゃん”なんて呼んでいたけれど、結局最後には“アウト”の手を躊躇いなく掴んでくれた。
——–俺達が選ぶべきは、もうインじゃない!アウトだ!
バイはこの世界の在り方も、記憶の継承についても、何も知らない。俺の中に、インが居る事も知らない。
『アウト!また一緒に感想会やろうなー!』
けれど、そう言ってバイとして笑うバイの心には、まだニアとしての記憶がしっかりとその背中にもたれかかってる。
世界の在り方も、記憶の継承についても、知った所でどうにもならない。だから、言っても仕方がないし、言う必要もない。
だけど――。
——–お兄ちゃん、会いたかった!ずっと、ずっと会いたかったの!
ただ、もし俺の中のインにバイを会わせたらどうなるのか考える。
せっかくバイとして生きている今のバイにインを合わせたら、前を向いて“今”を生きようとしているバイの足枷になりはしないか。
どうにもならない“あの子”への未練を焦がしやしないか。なんて、
『……違う、俺は嘘ばっかりだ』
俺はバイの背中を見送りながら小さく呟いた。
ぎょうかんの読めない俺だけど、さすがに自分のぎょうかんを読めないなんて事はない。もし、自分のぎょうかんを読めない奴なんてのが居たら、それは“読めない”のではなく、“読まない”のだ。
自分の気持ちの嫌な部分から目を逸らして“無い事”にしているだけ。
『俺は、バイがインに取られたら嫌だって思ってるんだ。バイをニアにされるのが嫌なんだ』
だって、俺はニアなんて会った事がないから。
——-ウィズ。いや、ここでは一応オブって呼んでやるよ。じゃないと、アウトが仲間外れみたいになるから。
そうなのだ。皆が前世の話をする時、俺はいつだって仲間外れになる。
俺は昔の話をインから聞いて知ってはいるけど、それはやっぱりアウトの経験ではないのだ。
だから、今を生きている“俺”から、前世の皆に今の皆を取られたくないって思ってる。
——–アウトは本当に誰でも受け入れるし、器が広すぎるよねぇ。
ヴァイスは俺にいつもそう言うけれど、俺は器も懐も、そんなに広くない。俺は心の狭いやつだ。だってバイが喜ぶのを分かっているのに、インにも会わせてやらないのだから。
——–アウトー!おーい!アウトってばー!
バイがやかましく俺の名を呼ぶ声がする。俺はいっつもその声を『うるさいなぁ』なんて思ったりしながらも、本当は嬉しくて仕方がないのだ。
『うん。俺、最後まで責任持ってちゃんと頑張るよ。バイ』
本当の俺は心の狭い、ただの嫌な奴だ。
〇
平日とは言え、皇都の役所は混雑している。子連れだったり、仕事で手続きに来ている人だったりと、その顔触れは様々だ。
「ベスト。大丈夫か?本当に熱は無いんだな?」
俺の隣で何度目ともしれぬプラスの声が聞こえてくる。いや、本当にもう何回目だろう。聞き飽きた。なので、この問いに対するベストの返答だって、きっと俺は一言一句間違えずに言える。
「あぁ、もう大丈夫だ。元々、熱なんてない」
そう。プラスの問いに対し、ベストは面倒臭がる事もなく、この返答を何度だって口にするのだ。きっと内心では「いい加減にしろ」くらいは思っていて良い筈なのに、おくびにも出さない。
ただただベストはプラスが安心するように、ゆっくりといつもの調子で言葉を紡ぐのみ。
「ふう、心配だ。心配だ。小さい子は風邪も拗らせると大事になるからな。大きくなるまでは、本当に気が気じゃないぞ。これからは気を引き締めないと」
「ねぇ、プラス?大きくなるまでって何歳までそんなに心配するつもりだよ」
「ベストが成人するまでだ」
「気の長い話だなぁ」
俺達は賑わう役所の待合い席で、三人隣に腰かけて自分達の番号が呼ばれるのを、今か今かと待ちわびていた。
今日は二人で夜勤の代休を合わせて平日に休みを取った、大事な大事な日なのだ。
「アウト?別にそう気の長い話ではないぞ。なにせ、子供ってやつはすぐに大きくなるからな」
「でも、ベストはまだ九歳らしいから、」
「もうすぐ数えで十にはなる」
「あっ、そうなんだね。えっと、十歳らしいからあと六年もあるじゃないか」
途中で、そこは勘違いされては困るとでも言うようにベストが珍しく口を挟んでくる。俺としては、こんなに痩せて小さなベストが九歳だとうが、十歳だろうが、あまり変わらない。
まぁ、しかし本人にとっては重要な事なのだろう。
「アウト。六年なんてアッと言う間だ。俺はもっともっとベストと一緒に居たいから、もっと赤ちゃんの時にベストをうちの子にすれば良かったと思っているぞ!」
そう言って隣に座るベストに抱き着いて頬を寄せ始めたプラスに、俺は「わかった、わかった」と軽く息を吐いた。
ベストを引き取ってから、プラスは「俺達の初めての子育て!」とニコニコと元気に口にする割に、プラス自身はこうして言葉の端々で、まるで子育てを経験したかのような事を言う。
俺にとっては六年なんて物凄く先の事に思えるのだが、プラスにとってはそうではないらしい。
「152番の方―!」
すると、プラスの手に持っていた紙に書かれた番号が、騒がしい役所の中で響き渡った。
「よし!やっと俺達の番だぞ!」
「そうだな、俺達の番だ!」
今日はとても大事で大切な日だ。
「ベスト!これで今日からベストはうちの子になれるぞ!」
俺達は今日、このお役所でベストに新しい籍を作って、俺達の保護者登録をする。
「籍さえあれば、学校にも行けるしね!」
俺の鞄には事前に調べた必要書類が全て余すところなく入っている。この日の為に、俺達はアバブに夜勤のシフトも変わってもらったし、日にちを合わせたのだ。
それに、ちゃあんとお金だって持って来た。
「「よーし!やるぞー!」」
「……」
俺とプラスは二人して拳をくっつけ合うと、人生で初めてとなる保護者登録へと向かったのだった!