296:プラスの悪い手

 

「納得されましたか?」

「いいや、全然。俺達はベストの保護者になる為に必要なモノは全部持っている」

「いいえ、持っていらっしゃいません」

「ならば、俺達は一体何を持っていないというんだ?」

 

 静かな攻防が淡々と進む。

 プラスは役所の職員の前で腕を組むと、静かに目を閉じた。プラスの眼鏡が鈍く光る。諦めたくない気持ちは分かる。けれど、きっとここで俺達が粘っても、きっとどうしようもない。

 何故なら――。

 

「貴方方に足りないのは、圧倒的な“信用”です」

「……」

 

 そうなのだ。

 俺たちはどんなに必死に働いて稼いでいても、最初に台帳に記載された烙印は、どう努力し、手を尽くしても消す事は出来ない。

 

「貴方方のようなマナの無い方が、もし今仕事を失くしても自分達で仕事を得る事も出来ないでしょう?難民の貴方なんて、病気や怪我になっても保護は国からの給付金で賄われる。貴方方に何かがあった時、その子は一体誰がどうやって面倒を見るのですか?貴方方は一人で一人前の扱いを受けられる程、国への義務を果たせていない」

 

——半人前以下なのです。

 

「半人前以下……」

 

 役所の職員の言葉が、耳の奥に幾重にもなって響き渡る。

 あぁ、この言葉は以前も言われた記憶がある。

 

「そうですよ。アウトさん。私は以前、貴方には申し上げたと記憶していた筈なのですがね。違いますか?」

「……そう、ですね」

 

 以前。

 そう、以前も俺は仕事を変えたいと申し出た時に、この男に担当してもらった。その時も、同じような事を言われたのだ。

 その言葉を聞くまですっかり忘れていた。いや、思い出そうとしなかった。嫌な思い出だ。出来れば、思い出さずに居たかったのである。

 

——–国の温情でご紹介された仕事を辞めたい?アウトさん。貴方、どこまで図々しいのですか?

 

 こんなのも、俺は何度も何度も経験してきた。そりゃあもう、自分の拳が血塗れになるくらい、様々なモノを殴り尽くす程に。

 

 いつもの事、いつもの事、いつもの事。

 

「そもそも、その子は本当に貴方方の所に居たいと思っているのですか?正直言って、貴方方に保護者になられるよりは、国の施設で面倒を見て上げた方が、よっぽどその子の為になると思いますよ」

「なんだと?」

 

 俺が心の中で、自分の感情を抑え込もうと同じ言葉を繰り返し唱えていると、隣からプラスの一切の感情を削ぎ落した声が聞こえて来た。

 

「年齢はもうすぐ十歳。だとすれば、あと少しでこの子もマナが定着して正確な測定が出来る年ごろです。もし、彼にマナがあった場合。まぁ、普通は有るでしょうね。ハッキリいってこの子の将来の足枷に、貴方方保護者がなる事になりますよ」

「……あし、かせ?」

「そうです。もしかして、その為にこの子を引き取ろうなどと思われたのですか?金になると、そう、思って」

 

 その瞬間、プラスの拳に一気に力が籠るのを俺は見た。

 

 危ない。

 

 そう考えるよりも先に、体が動いていた。そして、それは圧倒的に正解だった。俺はプラスの手首をベストを乗り越えて握りしめた。窓口の机の下で、ギリとした互いの手と拳がぶつかり合う。

 正直、男性職員には俺が急にプラスに詰め寄ったようにしか見えなかっただろう。

 

 ぎり。ピリとした痛みが俺の手首に走る。

 どうやら俺の手首をプラスがもう片方の手で、握りしめているらしい。その力は驚くほど強く、その力強さはハッキリと俺に伝えている。

 

「アウト、離せ。でなければ、お前もタダではおかない」

「離さない。絶対に、離さない」

 

 暴力はダメだ。俺達は言葉で暴力を受けてはいるが、けれどそれは決して相手に拳を放って良い理由にはならないのである。

 

「……」

 

 その、俺達の静かな言葉のやりとりを、ベストは「ひゅっ」と息を呑んで見ていた。その目は大きく見開かれ、圧倒的にいつものプラスではなくなった彼を前に、ひくりと体を震わせている。

 

「俺達は、ベストを立派に育てるんだろ」

「……あぁ、そうだ」

「なら、ダメだろ」

「何故だ」

「親は、悪い事を、」

「……」

「子供の前では、しないんだ」

 

 お父さんは騎士団の中でも、物凄く強いと言われていたけれど、誰かに暴力を振るうところなんて一度だって見た事がなかった。自分が殴られても、絶対にそれだけはしなかったのだ。

 

「拳を解け、プラス。こんな悪い手を、ベストに見せるんじゃない」

「っ」

 

 プラスはその瞬間、その瞳を大きく揺らすと、一気にその目を“いつもの”プラスの目に戻した。少し、泣きそうだ。その泣きそうな目が、隣に座るベストを見つめていた。

 

「うん」

 

 プラスがか細い声で頷いたのを聞いた瞬間、俺はプラスの手首から手を離した。俺達の力が余りにも強かったせいだろう。

 

 俺とプラスの手首には、互いに互いの掴んだ掌の痕が、青白く浮かび続け、一切消える事はなかった。