300:碌な奴じゃない

 

「ウィズ。さっきは、取り乱してわるかった」

「い、いえ」

 

 そう、トボトボと肩を落としながらやってくる子供の姿に、ウィズが戸惑ったように視線を向ける。ウィズはベストをどう扱って良いか困っているようだ。

 俺の時と同じように。

 

 彼を、あの頃の父として扱うのか、それともベストというただの子供として扱うのか。だから、俺はヴァイスの言うように、ウィズにも環境を作ってあげる事にした。

 

「ベスト、おいで。ジュースをあげるからね。ほら、ここ。ウィズの隣」

「……うん」

 

 何も知らない俺がベストを子供として扱う。それを見ていたら、きっとウィズもいつか慣れる筈だ。悲しいけれど、もうこのベストはあの頃のお父さんではないのだという事を。

 

 そして、それはウィズにとっても同じだ。ウィズももう、あの頃のオブではない。俺はウィズをオブとして扱わない。

俺の知らない過去に執着するオブにではなく、俺と共にある未来に執着するウィズで居て欲しいから。

 

「ほら、どうぞ」

「あり、がとう」

 

 ベストは少し高いカウンターの席に腕をかけ、登るように腰かけた。そんなベストの姿をウィズはどこか寂しそうな目で見ている。

 

「ベスト。プラスはどうしたの?」

「寝ている」

「まったく、寝かし付けに行って自分が寝てどうするんだよ。プラスの奴」

 

 ベストの口から出てきた、余りにも予想通りの返答に俺は思わず笑ってしまった。きっと、泣いているベストをよしよししている間に、ポカポカとした子供体温に自分が夢の世界へと連れて行かれてしまったに違いない。

 これではむしろ寝かし付けられているではないか。

 

「ウィズ、あの……」

「どうしたんですか」

 

 最初はウィズの奥に居る見知らぬヴァイスを気にしていたベストだったが、ヴァイスが子供好きのする、けれどどこか胡散臭そうな笑みを浮かべるのを見て、ベストは軽く会釈をするのみに留まった。

 

 どうやら、ウィズ同様ベストもヴァイスは苦手なようだ。やはり、どうあっても二人が元々親子だった足跡は、そう簡単には消せそうにない。

 

「頼みがあるのだが」

「言ってください」

 

 ウィズの急くような短く返答が、ベストの言葉尻に被さる。ウィズは、この後ベストから口にされるであろう言葉を、ずっと待っていたのだ。

 

「もっと、この世界の事を教えてくれないか」

「……今も勉強をしているじゃないですか」

「足りない、と感じる。俺は、もっと知らなければならない」

「どうして」

 

 ウィズが少しだけ詰問するような口調でベストに尋ね続けた。

きっと何も知らない人間がこの光景を見ていたら、こんな小さな子供にそこまで深く問いかける必要なんてないだろうと思うに違いない。

 けれど、今の俺ならば、ウィズの気持ちも大いに理解できる。

 

———俺のお父さんは、もっともっと凄いんだ!

 

 ウィズはやっぱりお父さんの凄い所が見たいのだ。あの頃の、大きくて強くて、少しだけ怖い。けれど、格好良いお父さんを。

 

「知らなければ、アイツを守れない。まったく、アイツときたらあの頃は金がなく、今はマナだの信用だのが無いなんて言われている……ウィズ。もう俺は自分が傷つくのを恐れて“知る”事を躊躇ったりしない。知っても何も変わらないかもしれない。けれど、知らなかったら絶対に何も変えられないのだから」

 

 そう、先程まで目の周りを赤くしたベストの子供っぽい瞳が、言葉と共に力を増していく。俺はこんなにもベストの口から沢山の言葉が紡がれるのを初めて聞いた。

 

「ベスト。よく言った!凄く格好良いぞ!さすがはうちの子だ!」

「アウト」

 

 俺はカウンター越しに体を乗り出しながら、必死にベストの頭を撫でてやった。こうして、ベストの頭を撫でてやると、撫でてやる度にベストが“うちの子”になっていっている気がして、とても嬉しい気分なのだ。

 

「アウトも、いろいろ、教えてくれ」

「……あー、でも、俺に教えられる事なんてあるかなぁ?」

 

 ベストの突然の俺への打診に、俺は少しばかり困ってしまった。真っ黒い大きな瞳が、ジッと俺の方を見つめてくる。

俺の勘違いかもしれないが、ベストはウィズやプラスを見る時の目と違って俺を見る時の目は、いつになく子供らしいのだ。

 

 それは俺がベストの前世に、なんら関わりがないせいかもしれない。だからこその、純粋な子供の目。

 ベストにとって、俺は何のしがらみもないが故に、もしかしたら一番気楽に接する事の出来る大人なのかもしれない。

 

「教えられるか分からないからさ、ベスト。一緒に勉強しようか?学窓が始まるまでは、俺がベストの同級生って事で」

「……わかった」

 

 俺の苦し紛れの提案に、ベストがコクリと頷く。その、まるで小動物のような動きが余りにも可愛らしくて、最後に俺は更に腕を伸ばしてベストの頭をグシャグシャと撫でてやった。

 するとその瞬間、ベストの脇から出てきた手が勢いよく俺の腕を掴んだ。

 

「おい、アウト」

「ウィズ?」

 

 急に掛けられたその差し迫るようなウィズの声に、俺は思わず大きく肩を揺らす。

 

「えっと、ウィズ?」

 

一体どうしたのだろう。元お父さんとは言え、ウィズの親に対して、余りにも子供扱いし過ぎただろうか。それとも、俺の勉強不足に呆れを通り越して、怒ってしまったのか。

そう、どちらに転んでもウィズにしっかりと説教を食らう未来を想像してしまった俺は、ヒクと顎を引きながらウィズの顔を見た。

 

 けれど、その顔は怒っているというよりは、完全に呆気に取られていた。驚愕の表情と言っても過言ではない。

 

「アウト、これは一体なんだ?」

「これ?」

 

 そうウィズの問いかけに、俺もウィズの視線の後を追った。すると、そこにはしっかりと掴まれる俺の腕。更に言えば、あの時、プラスに痛いほど握りしめられて付けられた青白い掌の痕がくっきりと付いている。

 

「あぁ、これ?これはプラスが俺の腕を掴んだ時についた痕だよ。綺麗に痕がついちゃってて気持ち悪いだろ?」

「プラスが?」

「そう。でも俺もプラスの腕に同じような痕を付けちゃったからお相子だよ。別に喧嘩した訳じゃない。それにもう全然痛く」

 

 ない。

 そう、俺が口にしようとした時だ。ウィズの声が勢いよく俺の言葉を遮った。

 

「お前に傷痕を残せる人間が、この世に居る訳ないだろうっ!そんな奴が、もし居たとしたら、それはっ」

 

――きっと碌な奴じゃないよ。

 

 そう、風に舞うような声で、歌い上げるように口にされたヴァイスの言葉は、俺の手首に青白く付いた痕を、どこか気持ち悪そうに見ていた。