307:西部地方

 

◆◇◆◇

 

 ベストの保護者登録が出来ずに終わったあの日、ヴァイスが俺に尋ねてきた。

 

——–ねぇ、アウト。君は西部地方について、どれほど知ってる?

 

 その問いは、ウィズの酒場ではなく俺のお腹の中で問われたモノだった。

 

 

        〇

 

 

 あの日、俺は非常に疲れ果てて、ベッドの中で深い深い眠りについた。

 

 だからだろう。

 俺がマナの中で意識を覚醒させた時。

 

 それはいつもの俺の酒場ではなく、昔の俺がずっと鍵を掛けて隠れていた“アウト”の部屋だった。

 そこで俺は覚醒したにも関わらず、しばらく頭がぼんやりとしたような感覚が抜けきれずにいた。

 なんだか、とてもぼーっとする。

 マナの中なのに眠いなんて、こんなの滅多にない事だ。

 

 きっと、それもこれも全部ウィズのせいだ。

 

『クソッ、なんで俺では跡が付かないんだっ!クソッ、クソッ、クソッ!』

 

 その夜、ウィズはそう言って何度も何度も、俺の耳元で悪態を吐いていた。けれど、それは俺に対して言っているというよりは完全な独り言のようで、俺がいくら『うぃず、まって』と名前を呼んでも、全く答えてくれなかったのだ。

 

『俺では、足りないと言うのかっ!』

 

 ウィズは俺の手首についた青白い跡を見ては、何度も何度もその痕に口付けをしたり、噛んだり、挙句には体中に噛みつかれて、ほとほと大変ななか眠りについたのだった。

 

 

——–アウト、お疲れ様。今晩は嫉妬に狂った狼が暴れて大変だったね。

 

 

 すると、ぼんやりとした意識の片隅に、風のような軽やかな声が響いてきた。

 

 声のする方を見てみれば、そこには予想通り、にこにこと笑顔を浮かべ此方を見てくるヴァイスの姿がある。

 俺の部屋でくつろぐヴァイスはウィズの酒場で見た時とは異なり、ゆったりとした法服を身に纏っていた。

 ヴァイスがこうして仕事着を身に着けているのは、そういえば初めてみる。

 

——-男は狼だからね。気を付けないと。アウトみたいな羊はすぐに食べられちゃうよ。もう、食べられた後に、こんな事を言うのも何だけどさ。

 

 狼?羊?

 一体何の事だろうか。

そう理解出来ないまま、俺はフワフワのクッションに誘われるようにヴァイスの隣へと腰かける。そんな俺にヴァイスはその子供っぽい顔には似合わない、老成したクスリとした笑みを静かに向けて来た。

 

——-まぁ、分からなくてもいいさ。でも、アウトにとってウィズは狼というより子犬か何かなのかもね。なんといっても、アウトは懐が広いから!

 

 ヴァイスと俺はもう一心同体で“どーき”しているから、口にしなくても伝わる。

 

 便利だなぁと俺は思うのだが、ヴァイスからは「頭の中を覗かれてそんな事を思えるのは、アウトくらいだよ」と、いつも苦笑されてしまう。

 

——-まぁ、狼とか犬は置いておいてね。今後あの、プラスという男の尻尾をアウトに掴んで貰う為に、一つ話しておこうと思うんだ。

 

 何を?

 俺は自室でお気に入りのふかふかのクッションと、お気に入りの調度品でもあるヴァイスにピタリとくっつきながら尋ねた。

 もちろん、心の中で。

 

——–ねぇ、アウト。君は西部地方について、どれほど知ってる?

 

 西部地方について。

 俺は学窓で習った基本的な事を思い浮かべてみる。

 

 皇国の中でも最も古い歴史を持つ土地で、真ん中には世界でも最大と言われるドーリングという河川がある。あとは、古い。ともかく、歴史が古い。

 

——-うん!何も分かってない事が分かったよ!でも、確かに西部の歴史は古いね!その通り!

 

 ヴァイスは俺の隣から突然立ち上がると、法服を靡かせてひらりと舞った。もう、踊らなければ俺の知識の無さにやってられないとでも言うように。

 

——-だから、西部地方はビヨンド教発祥の地とも呼ばれているんだよ!そう、何と言っても歴史が古いからね!

 

 バカにしてるだろ。

 俺は口を尖らせると、持っていた柔らかいクッションを両腕でギュッと抱きしめた。まぁ、実際バカなので、ヴァイスの反応は間違ってはいないのだろうけれど。

 

——ごめんごめん。アウト。そうむくれないで。西部地方はビヨンド教発祥の地。まぁ、正確に言えば、“今”のビヨンド教の原型を作り上げたのが西部の教会なんだよ!

 

 あぁ、確か俺も昔学窓で習った気がする。

 だから、西部の教会はビヨンド教の“聖地”と呼ばれると、そう書いてあった。

 

——そう。皇国の総本山であるパスト本会は、今でこそこの皇都に移されているけれど、最初は西部にあったのさ。じゃあ、なぜ、始まりが西部だったと思う?

 

 わかんないや。

 急に始まった歴史の授業に、俺はマナの中にも関わらず、再び強い眠気に襲われた。俺の勉強嫌いは、本当に筋金入りで自分でもびっくりする。

 

——答えは!僕が最初に“禁書庫”を出したのが、西部教会の手洗い横の談話室だったからさ!

 

 んんん?

 俺は突然ヴァイスの口から飛び出して来た“僕”という、歴史語りには通常現れる事のない一人称に思わず目を剥いた。先程までぼんやりとしていた意識は、今やハッキリと覚醒している。

 

——-言ったじゃないか!ビヨンド教が今の形になったのは暇を持て余した僕が、世界各地に禁書庫を作り出すようになったからだって!その最初の場所が西部の教会。手洗い横の談話室さ!

 

 なんでそう、手洗い横の談話室を強調するのか。そこは、重要なのか!

 

——-ふふっ。

 

いや、手洗い横の談話室というのは、きっとそんなに重要な情報ではないようだ。その証拠に、ヴァイスの俺に向けるその顔が、からかうような笑みを絶やす事はない。

 

——-だから、西部教会は仰々しくも【知識と歴史の始まりの地】なんて呼ばれているんだ!無限の繰り返しの中、たまたまその時、神官をしていた僕が投げた本が全ての始まりになるなんて、その時は思っても見なかったね!

 

 たまたま。

 歴史ってそんなものなのか。なんだか、仰々しくも自分とは関係のない、長い年表のように思っていたけど、実際は“歴史”なんて一人一人のなんてことない暇つぶしの結果、作り上げられるモノなのかもしれない。

 

——-そうそう。そんなモンだよ。人の歴史なんてさ。そんな軽いノリで始まった西部の神官達の歴史は、今や世界全土の秩序と知識と権力を握っている!あぁ、僕はなんて大変な事をしでかしてしまったんだ!責任を感じるよ!

 

 きっと、ヴァイスは責任なんて一切感じていないに違いない。

 なにせヴァイスは法服の袖を振りながら、部屋の中で楽し気にクルクルと回っているのだから。

 

 けれど、次の瞬間。

 ヴァイスの舞いは俺の前でピタリと止まる。そして、その顔はヴァイスには不釣り合いな程スンとした感情のない瞳に彩られていた。