310:プラスの尻尾

 

「おかわりは?」

「いる」

「そうこなくっちゃ」

 

 俺は持って来ていた瓶を、プラスの差し出して来たグラスに調子良く傾けた。きっと、この橙色の液体は、どんどんプラスを良い気分へと誘ってくれる事だろう。

 そんな俺の姿を、俺の向かい側に腰かけていたヴァイスが、机に肘をついて愉快そうに見ている。

 

「昔、少しだけ飲ませてもらった酒はこんなに美味しくなかった。匂いが独特で、後味がヘンで……ともかくマズかった」

「へぇ、どんな酒だろうな」

「さぁな。名前は知らん。余りにも瓶が綺麗だったから、美味しそうに見えた。アイツも美味しそうに飲んでいたから、俺は少しだけ酒を貰う事にしたんだ」

「アイツ?」

「そう。まるで夜みたいな奴で、出会った時は酒とタバコをいつも手に持っていたな」

 

 プラスの目が、チラとカウンターに大量に並ぶ酒瓶を見つめながら、けれどその心はどこか遠い遠い場所まで向かっているようだった。

 

「けど、飲んだら凄く頭がクラクラして、すぐに気持ちが悪くなった。せっかく食べた夕飯も全部吐いた。すごく……もったいなかった。だから、俺はもう二度と酒は飲まないと誓ったんだ。瓶は、すごく、綺麗だったのにな」

「そりゃあ災難だったな」

「あぁ、本当に災難だった。アイツにもコッチの方が美味しいんだって言って飲ませてやりたいな」

「ここに連れてきたらいいじゃないか」

 

 アイツ、アイツ、アイツ。

 プラスがその口から語る、名もない“アイツ”は、プラスの表情をこれまでにない程に柔らかくした。

 

「ここに?」

「そうだよ、連れて来て一緒に酒を呑もう」

「……それはいいな」

 

 あぁ、穏やかだ。

 いつもの明るいプラスも、敵を見るような冷たいプラスも、そしてこの酷く幸福に満ちた表情を浮かべるプラスも、そのどれもが俺にとっては別人のように見えた。

 

「“アイツ”は今どこに居るんだ?皇国?それとも……西部?」

 

 俺は留まる所を知らぬとでも言うように、コクコクと橙色の液体を飲み干していくプラスに何度も瓶を傾けてやる。瓶の中も既に半分まで減った。

 今のプラスは、普段ではまったく見た事がない程に、その顔を真っ赤にしている。

 

 ほら、ここに居るプラスはまた別のプラスだ。

 

「こうこくには、きっと、いない。せいぶは、いやなやつだらけだ」

「……嫌な奴、か。あの役所の職員みたいな?」

 

 “アイツ”は皇国にも西部にも居ない。

 そして、西部には嫌な奴だらけ。

 

 ポツポツと語られるプラスの語りは、もう、どこか心ここに在らずといった風で、なんとも呂律も頼りなくなっていた。

 まさかここまで弱いとは。

そんなとりとめのないプラスの言葉を、俺は一つずつ拾い上げていく。大切に、大切に。

 

 プラスは俺の大切な友達だ。

 

「そうだな。あの、おとこみたいにひとをバカにして、さべつするヤツらばっかりで、おれは、せいぶはだいきらいだ」

「そっか」

「おれの、かわいいこにも、てをだしたから、おこって、でてきた」

 

 プラスの言葉がじょじょに混濁していく。最後の一注ぎをプラスのグラスに入れてやった。言葉を理解しようとしてはいけない。

 酔った相手の言葉なんて、どれもこれもこんなものだ。

 

 俺はプラスの尻尾を掴むのではなく、撫でてやらねばならない。

 

「可愛い子?ベストみたいに?」

 

 いつの間にか、俺の脇にはベストが立っていた。プラスの言葉を、プラスの真っ赤な顔を、ジッと見つめている。その小さな手は、テーブルの下で俺の左手をギュッと握り締めている。

 

「うん、べすとみたいに、かわいい。でも、にげるとちゅうで、しんだ。かなしかった」

「……そっか」

「こどもは、すぐに、しぬ。おれたち、おとなとちがって。だから、だいじにしないと」

「うん、大事にしないとな」

 

 プラスはテーブルについていた肘を崩すと、そのまま支えきれないとでも言うように上半身を折り、くたりとテーブルに体重を預けた。もう最後に注いだ橙色の液体は、一滴だってプラスのグラスには残っちゃいなかった。

 

「あいつは、いつに、なったら、あいにきて、くれるんだろう、なぁ」

「もうすぐ会いに来てくれるさ」

「でも、おれは、やくそくやぶりだから、きっと、あいつは、こない、だろうなぁ……」

「大丈夫だよ、きっと会いに来てくれる」

「……いいや、こないよ」

——来なかったからな。

 

 プラスは最後のその一言を震える声で言い放つと、そのままテーブルに預けた腕の隙間から「すー、すー」と穏やかな寝息を漏らし始めた。

 

「スルー」

「んぅ」

「スルー、俺も、会いたい」

 

 俺の手をギュッと握り締めていたベストが、小さな声で呟いた。その、まるで急いで書き記された手紙の返事のような言葉が、眠るプラスの耳に届く事はない。

 

「会えるよ、ベスト」

「あうと、でも……俺は」

「俺はベストの親なんだから。子供の願いは、なんでも聞いてやるんだ。何があってもな。だから、そんな顔はしなくていい」

「……うん」

「俺が、全部なんとかする。約束だ」

 

 枕にされたプラスの腕の隙間からのぞく、青白かった筈の俺の付けた掌の痕は、今や真っ赤になったプラスを追いかけるように薄い桃色に色づいていた。

 

 俺と同じ痕。互いに付けられた手首を縛る痕。

 

「アウト、上手にプラスの尻尾を撫でたじゃない」

「……何も分からなかったけどね」

「でも、まぁよくもこんなに酔えたもんだよ」

「だね」

 

 ただ俺の隣で静かにプラスを見つめては心配そうな表情を浮かべるベストに、俺は先程までプラスに飲ませていた瓶のラベルをベストに見せてやった。

 すると、そのラベルを見た瞬間ベストの目が大きく見開かれる。

 

「それは……」

「ベストがいつも飲んでるのと同じやつだよ」

 

 ルビー飲料。

 ラベルに書かれた、明るい太陽を模した絵が、まるで笑っているかのようにベストを見ていた。

 

「酒じゃ、なかったのか」

「飲めないヤツに酒なんか飲ませたら、俺は今頃ウィズに大目玉だよ」

「そうか」

 

 俺の言葉にベストはフッと心配そうだった表情を緩ませると、隣に居た俺にしか聞こえないほんの小さな声で呟いた。

 

「俺は、やっぱり、コレよりもあの時の酒の方が好きだけどな」

——コレは、余りにも甘すぎる。

 

 あぁ、我が子の笑顔はどうしてこんなに親を何でも出来る気にさせてくれるのだろう。

 俺は緩やかにその顔に浮かべられたベストの幸福そうな笑顔に、ハッキリと湧き上がってきた想いのまま、たまらず口を開いた。

 

「ベスト。俺が絶対にお前をスルーに会わせてやる」

「アウト?」

「だから、約束して」

 

 俺はベストに握り締められていた俺の手に少しだけ力を込めると、もう片方の手でベストの頭をゆっくりと撫でてやった。

 

「“スルー”だけじゃなくて、“プラス”も大事にしてやってね」

「……うん」

 

 俺の言葉に、プラスは深く深く頷いた。

 あぁ、なんて可愛い我が子なんだろう。