2:王子様現る
「靴が汚れてしまったわ」
私は一人で歩いていました。
前の日に雨でも降ったのか、私の歩いている小道は、もちろん煉瓦で補整されているわけでもない、泥だらけでべちゃべちゃの道です。
ニースは居ません。本当に、私一人きりです。
『エクセプト様。馬車の歯車が泥でおかしくなってしまったようです。私は荷物を整理して向かいますので、エクセプト様は先にお屋敷へ行かれてください』
本当は私もニースを待って一緒にお屋敷に向かいたかったのですが、村の真ん中で、たくさんの村人達に見られ続けるなんて、私にはどうしても耐え切れません。
だから、村人の視線を隠せるようにツバの広いお気に入りの帽子をかぶって、私は歩き出したのです。お屋敷がどこにあるかなんて、聞かなくても、探さなくてもわかります。だって、それらしい建物は一つしかありませんから。
村を抜けた先にある大きな建物。
どう考えても、あれが私の夫と息子の暮らすお屋敷で間違いないでしょう。
「……きたない」
歩く度に泥が跳ね、汚れていくお気に入りの靴に、私はどんどん悲しくなりました。
私は生まれてこのかた、こんなに靴を汚してしまった事なんか一度もありません。そうやって、ずっと汚れる靴を見て俯いていたせいでしょう。
「きゃっ!」
私の突然自分の頭から、かぶっていた帽子が物凄い勢いで何かに攫われた事に、取られるその瞬間まで、まったく気付く事が出来ませんでした。
最初は風かと思いました。けれど、不思議な事に私の髪の毛もスカートも何一つたわめいてはいません。
「あぁっ」
空を見上げてみれば、そこには大きな大きな茶色の鳥が真っ青な空を、その羽をピンと広げ風を切るように飛んでいました。
その口元を見れば、私のお気に入りのツバの広い帽子。
私の帽子をさらった犯人は、どうやらあの鳥のようです。
「わたしの、帽子が」
きっともう二度と戻ってこないであろう事は、あの鳥の事など全く知らない私ですら理解できました。青空と太陽の光が、私のヒラヒラとした帽子を飲み込んでいきます。まるでそれは、一枚の美しい絵画のよう。
でも、私は私の帽子を絵画の一部になんかされたくありません。だって、私はあれ一つしか帽子を持ってきていないのです。
あれは、私を他人の目から守ってくれる大事なモノ。
あれが無ければ私は、私に向けられる多くの視線に、否応なく晒される事になるのです。
「……かえして」
声が震えます。
あれがなければ、屋敷に入った瞬間に向けられる、見慣れぬ執事やメイド、それに夫と息子の視線から隠れられないではないですか。
困ります。そんなのは、とても困るのです。
「かえして!」
そう、私が、自分でも驚くような大声を上げた時でした。
ヒュン!
またしても、物凄い勢いで風を切る“何か”の音が、私の耳を突きました。それと同時に、小道の脇から私の隣を物凄い勢いで誰かが駆け抜けて行きます。
「っ!」
駆け抜けて行ったその後ろ姿は、紛れもなく一人の女の人でした。茶色の一つに結われた長い髪と、たわめく粗末でボロボロのスカート。けれど、草原を駆け抜けるその姿は、格好はみすぼらしいのに、とても美しく感じました。
「あ」
よく見れば、彼女の手には弓のようなモノがあります。そして、先程まで私の帽子を奪い、空の絵画にしてしまっていた大きな鳥が、空の上でピタリとその滑空を止めました。
そして、次の瞬間には、先程までの悠然とした姿がまるで嘘のように、一気に地面へと落ちていきます。
けれど、彼女がその足を止める事はありません。それどころかもう一度、しかも、走りながら弓を構え始めたではありませんか。
「な、んで」
私がその場で小さく声を上げた瞬間、彼女はもう一度弓を射ました。ひゅん、と風を切る音が私の耳にまで響き渡ります。
彼女の手から放たれた弓矢は、今度はその鳥の首を狙って打ち込まれたようです。二本目の弓矢が吸い込まれるように落ちて行く鳥の首元を一直線に貫きました。
その瞬間、それまで無かった風が悠然と草原を吹き抜けます。
彼女はそれまで駆けていた足をピタリと止めると、空を眺めて片手を空へと伸ばしました。彼女の動きにつられ、私も空を見上げてみました。
すると、そこには二本目の矢が鳥の首筋を貫いた瞬間、その口から離れた私の帽子が風に乗ってユラユラと空を舞っていました。
「帽子の、為に?」
どうやら彼女の二本目の矢は私の帽子を、このべちゃべちゃの地面に落とさない為の“二本目”だったようです。
「私の、為に?」
呟いた瞬間、私は自分の心臓がドキドキとうるさく高鳴ってしまうのを止められませんでした。この高鳴りは、私の好きな物語の中に出てくる女の子達が奏でる音と、まるきり同じではないでしょうか。
「あ、」
空からフワリと舞い降りた私の帽子を、彼女はゆっくりと掴み、二、三度帽子を手ではたきました。
そして、何か珍しいのでしょうか。私のお気に入りの帽子を上から、下から眺めているようです。その仕草が、なんだか私にはとても可愛らしく見えて、なぜかその気持ちが、更に私のドキドキとうるさい心臓を忙しくさせます。
そうして、しばらく私の帽子を眺めて満足したのでしょう。
彼女は片手に私の帽子、背中に弓矢、そうしてもう片方の手に撃ち落としたあの大きな鳥を抱え、私の前へと歩み寄ってきました。