3:彼女はまるで、
「こんにちは。これは貴方の帽子よね?」
「……は、はい」
「ヒラヒラして、手触りも良いし、色も春のお花みたい。素敵な帽子ね」
彼女は帽子を見てニコリと微笑みます。その意思の強そうな眉と、真っ黒で大きな瞳が、ハッキリと私を捕らえました。その瞬間、うるさかった心臓の音が、一瞬だけピタリと動きを止めた気がしました。
その時、私は本当に、本当に生まれて初めて物語に出てくる女の子達の気持ちを理解したのです。
そして思いました。“ときめき”というのは、人生を揺るがす大きな“衝撃”の事なのだ、と。
だから、思わず口を開いていました。
「あげる。それ、あなたにあげるわ」
「え?」
「だから、名前、おしえて。あなた、だあれ?どこに住んでるの?何歳?」
「……」
私は再び奏で始めた心臓のドキドキに背中を押されるように、彼女に一歩近づきました。私にはお友達なんていません。唯一、気安く話せるのはニースくらい。
こんなに知らない人に自分から話しかけたのは生まれて初めてでした。
だから、彼女が驚いたように此方を見てくる様子に、最初はちっとも気付きませんでした。
「……」
「ぁ」
私は何も答えない彼女に、やっと自分が一体何をしているのか気が付きました。その瞬間、顔が赤くなるのを感じます。私は一体何をしているのでしょう。見ず知らずの、貧しい村の、初対面の女の人に。
「ぁ、ぁ、」
自覚した途端、私は自分の行動と発言を恥じました。先程までのドキドキとはまた違ったドキドキが私を襲います。先程まで熱かった筈の体は、サッと熱を引きました。物語の中の女の子達は、こんな事きっとなかった筈なのに。
そう、私が彼女から一歩下がり、彼女からの視線に堪えかねて顔を両手で覆ってしまおうかと思った時です。
「くれるの?」
「え」
「でも、こんな素敵なヒラヒラの帽子、私に似合うかしら?」
「……」
彼女は私に差し出していた帽子を、なんともキラキラとした目で見つめ、尋ねてきました。その瞳のなんと美しいこと。今までたくさんの宝石を見てきましたけれど、こんなに真っ黒でキラキラの宝石は一度だって見た事がありません。
「似合うわ、きっと。似合う」
「そうかしら!じゃあ、かぶってもいい?」
彼女の明るい笑顔に、私は深く頷きます。すると、彼女は片手で私の帽子をクルリと回すと、そのまま優雅に自身の頭に被せました。
ふわり、と。私の帽子が彼女の彩りの一部になります。
あぁっ!あぁっ!
なんて、なんて!
「どう?」
「……すてき!」
「そう?」
「ええ、とっても!」
私の心はもう、ドキドキし過ぎておかしくなっていました。だって彼女は、こんなに素敵で美しくて、可愛いのに、あの弓を射る姿や横顔は、とても凛としていて格好良かったのです。
そう。彼女こそ、物語に出てくる本物の“王子様”そのものでした。
「ありがとう。じゃあ、帽子のお礼に……そうね」
「……名前を」
「これを上げるわ!」
そう、ズイと私の前に差し出されたのは、先程彼女が射殺した一匹の大きな茶色の鳥でした。彼女と違い光のない死んだ鳥の黒い瞳が、私の方をジッと見つめてきます。
普通ならば、きっと私は悲鳴を上げていた事でしょう。
けれど、その時の私は少しだけ、いいえ。たくさん混乱していたのです。
なぜなら、その鳥の亡骸すらも、素敵な彼女が私へと与えてくれるモノなのだからと、まるごと素敵に見えてしまったのです。
鳥の亡骸が、ですよ。変でしょう?
でも、本当に彼女の手にある時はとても素敵に見えたの。
「まるまる太っているから、きっと食べる所はたくさんよ!きっと今晩のおかずにしたら、家族全員お腹いっぱいになれると思うの!ねぇ、貴方の家族は何人?」
「あ、えっと……さ、三人よ」
「三人なら、きっと十分ね!あっ、でも。待って!もしその中に大食らいが居たら……ねぇ、家族はどんな人が居るの?」
「誰……えっと、夫と、十一歳になる息子が一人」
「十一歳!うちの子と同じ年ね!それはきっと大きくならなきゃいけない年頃だから、たくさん食べさせないといけないわ!それに、夫には元気で居てもらわないといけないから、そっちにもたらふく食べさせないと!あと……」
そう言って彼女は鳥の亡骸を持つ方とは別の手。弓を肩に掛けた方の手で、ソッと私の手首に触れて来ました。
彼女に触れられた瞬間、私の体は一気に熱を持ちます。私の心の音は、もう壊れる寸前です。
「あなたも、もっと太った方が良いわ。これじゃあ、細すぎるわ」
「え」
「……綺麗な手。真っ白ねぇ」
「っ!」
手首に触れた彼女の手は、彼女の美しい容姿とは異なり、とても固くてカサカサでした。そんな彼女の手が今度は、スルリと移動して私の手のひらに触れます。触れて、まるで帽子を見ていた時のようなクルリとした目で、まじまじと私の手を見てくるではありませんか。
そして、こんな事を言うのです。
「こんな綺麗な手、赤ちゃんの手でしか見た事がないわ」
「……赤ちゃん?」
「そうよ。ふふ。可愛い。これは、赤ちゃんの手ね」
そう言って微笑んだ彼女は私の手からソッと離れていきました。それが、私は少しだけ。いいえ、とても残念でした。
もう少し、触れていて欲しかったのに。
「赤ちゃん……」
赤ん坊なんて言われて、本当は不愉快になった方が良いのかもしれないけれど、なぜだか私はちっともそんな風には思えないのです。
———-もう、本当に困った子ですねぇ。お母様になられても、いつまでも甘えん坊なんですから。
耳の奥でニースの声が聞こえた気がしました。
そう、そうなのです。私は無理やりお母様にさせられただけで、本当はまだまだ赤ん坊と同じなのです。ずっと、何もできない赤ん坊のままで居たかったのです。
ですから、腹の立ちようもありません。むしろ、彼女に赤ん坊扱いをされて、私は嬉しいとすら感じた程です。
私は離れて行ってしまった彼女の手を見て、また触れて欲しいと心の底から名残惜しい気分になったのでした。