5:ゆうふくママと、ひんこんママ④

4:私をどこかへ

 

 

「そうね。きっとこれじゃあ足りないわ」

 

 私が彼女に触れられていた手を、もう片方の手でソッと握り締めていると、隣でポソリとした呟きが聞こえてきました。

 どうやら、彼女は自分の持っているあの鳥の亡骸に不満を抱き始めたようです。

 

「ダメ、ダメ。ごはんが足りないのは、絶対にダメ」

 

 そう、不満げに首を横に振る彼女の仕草。そんな一つ一つの動作が、何故だか私の心をせわしなくさせます。

 彼女は他にどんな表情を持っているのでしょうか。嫌いなモノを見た時は?びっくりした時は?悲しい時は?好きなモノを見た時は?

 

私は、もっと色々な彼女の表情が見たいのです。

 

「これじゃあ、お礼にならないから、今から私がもう一匹捕まえて来る事にするわ」

「え?」

 

 彼女はそう言うと、右肩にかけていた弓矢を腕からスルリと下ろしていました。そのちょっとした動きで、私のあげた帽子はふわりと彼女の瞳を一瞬だけ隠します。

 けれど、その帽子は彼女のしなやかな動きに踊らされて、すぐに隠していた彼女の瞳を露わにしました。

 

「貴方も、お腹がいっぱいにならないのは嫌でしょう?ね?」

「は、い」

 

 あぁっ、なんて素敵なの!

 

 そうして、弓を片手に携えた彼女の瞳は、先程までの帽子にキラキラと目を輝かせる宝石とは打って変わっていました。その目は、あの弓を射る瞬間に彼女が浮かべていた、細く、そして不敵な色に染められていたのです。

 

 彼女です。彼女こそ本物の私の王子様です。

 物語の王子様は、ここに居ました。本の中でも、女性観劇の舞台の上でもなく、ここに。

 

 ここに!

 

「ふふっ、貴方も見た目によらず大食らいなのね。いいわ、今からすぐに捕まえてくるから、此処で待っていて」

「待って!」

「ん?どうしたの?」

 

 私はすぐにでも駆け出そうとする彼女の手を、思わず掴みました。

どうやら、いつの間にか、私の家族は彼女の中で、大変な大食らいにされているようです。

 

 私は元来小食ですし、息子は幼い頃から病気がちで、もちろん沢山は食べれません。夫は仕事ばかりの人間なので、もしかしたら人の食べる物なんて食べた事がないのかも。

 

 なんて。そんな訳はありませんね。

 けれど、私は頭の片隅に浮かんだ酷く不愛想で、恐ろしい男を思い浮かべ、思わず頭を横に振りました。私は、夫の事が恐ろしくてたまらないのです。

 

「私も、一緒に連れていって」

 

 思わず彼女の手を掴みながら言いました。

 連れていって、なんて。鳥を捕まえに行く彼女に、私は夫や息子、そして貴族社会の全てから「連れ出して欲しい」なんていう、とても厚かましいお願いを乗せて口にしてしまいました。

 

 恋物語が好きです。

 素敵な王子様に憧れます。

 どきどきする恋に憧れてきました。

 好きな男性と手を取り合ってみたいと何度も夢を見ました。

 

 けれど、現実は夢とは違いました。

 現実世界の男は余りに大きく、余りに無骨で、余りにも汚らわしい。彼らには“王子様”なんてとても無理です。まるきり違います。

 

 私に近寄らないで!

 どこかへ行ってちょうだい!

 

 そう、だから、王子様は素敵で格好良い女性でなければならない。

 女性観劇の男役の役者様方のように、強くて、格好よくて、でも線が細い。凛とした眼差しの儚げな様子は、現実世界の男じゃ、どうしたって無理です。無理なのです!

 

「おねがい、一緒に行きたいの」

 

 私のお願いする声が、ユラリと揺れます。

 私は何を必死になっているのでしょう。この初対面の、名も知らぬ彼女に、私は一体何を求めてしまっているのでしょうか。

 

「……」

 

 私はたまらず彼女から目を逸らしました。目を逸らしたせいで、自身の泥で汚れかえった靴が視界に映りこんできました。

 

 あぁ、汚い。とっても汚い。

 

 現実世界では起こりっこない恋物語も、それを少しだけ現実の世界に落とし込めた女性観劇も、苦しい現実から目を背ける為の道具に他なりません。私が彼女に上げた、ツバの広い帽子と同じです。

 

 怖い現実から目を背ける為の、帽子のツバ。それが私の中のお気に入りで大好きなモノ達なのです。そして、それは所詮「現実逃避」の道具に過ぎません。

 私は掴んでいた彼女の手に込めていた力を、フッと緩めました。まったく、私ったら本当に「仕様のない子」です。

 

 彼女の手を掴んでも、私はどこへも行けないというのに。

 それなのに――。

 

「いいわよ」

「っ!」

 

 いつの間にか離しかけていた私の手を、今度は彼女が勢いよく掴んできました。その手は、先程同様カサカサで傷だらけでしたけれど、とても温かい。

 

 ぎゅう、と音がしそうな程に掴まれた私の手。

 こんなに力いっぱい手を握って貰えた事なんて、本当に幼い頃くらいしかありません。

 

——お嬢様。しっかり手を握っていてください。迷子になってはいけませんからね。

——うん!

 

 そう言ってニースが手を握ってくれたのは、もういつが最後だったでしょうか。

 

「一緒に行きましょう!どの鳥がいいか教えてくれたら、私がとびきりのを取ってあげる!来て!さぁ、こっちよ!こっちに鳥の集まる水場があるの!」

「あっ、あぁっ!」

 

 彼女は私の手を思い切り引っ張るとそのまま原っぱを駆けだしました。私はあまり走るのに慣れていないせいで、何度も転びそうになりましたけれど、それでも彼女の手が、私を離さないものですから、走るより他ありません。

 

「あっ!あなた、名前は?」

「っはぁっはぁっ!」

 

 草原を一緒に駆けている最中、そんな問いが投げかけられましたが、私はもう息が切れてしまって上手にお返事が出来ませんでした。

 けれど、そんなの彼女は気にした様子もなく、次の瞬間には、ずっと私が求めていた言葉を、なんて事なく口にしてくれました。

 

「私の名前はヴィアよ!よろしくね!可愛い赤ちゃん!」

「!!」

 

 彼女、いいえ。

 ヴィアは私の方を見て、まるで王子様みたいな、女神様みたいな、お母様みたいな、とんでもなく素敵な笑顔を浮かべてくるものですから、そこからの私の記憶は、もう殆ど曖昧です。

 

 私はこの時、ヴィアにこれまでとは違う、素晴らしい世界へと連れて行ってもらったのでした。

 彼女と駆けた世界は、帽子のツバで隠すのがもったいない程の美しいモノで溢れていたのです。

 

 

 

「すてき……!」

 

 

 

 その後、私は夢見心地のまま両手に大きな鳥の亡骸を一匹ずつ抱え、足は泥まみれのまま、屋敷へと戻りました。数か月振りに会う、夫と息子は、そんな私をどんな目で見ていたのか。

 

 そんな事、此処ではないどこかへ連れ出された私には、知る由もないのでした。

 

 

【Twitterお喋り(前世編)ママ有】に続く