320:お父さんといっしょ

 

 

「ベスト。こっちを向いて」

「アウト」

 

 そう、今度こそ俺はベストの方へと向き直った。先程のヴァイスとのやり取りで、少し、怖がらせてしまったかもしれない。俺も、お父さんがお母さんを叩いた時、お父さんの事を“怖い”と思ってしまったから。

 

「俺が、怖い?」

「……すこし」

「なら良かった。お父さんは少しくらい怖い方が格好良いからね」

 

 俺はベストの頭を、いつもより少しだけ乱暴にグシャグシャと撫でた。こういう撫で方も、お父さんはよくしてくれた。

 

「ベスト。なんか、ベストは物凄くマナが多いんだってさ。だから、神官になれるんだって」

「うん」

 

 俺の言葉にベストが小さく頷いた。その瞳は、少しだけ揺れている。

 

「神官って分かる?どういう仕事か知ってる?」

「うん」

「そっか。ウィズに聞いた?自分で勉強した?」

「どちらも」

「そっか。ベストは本当に物凄く勉強してたもんな。俺も分からないような本をずっと読んでさ。えらい、えらい」

 

 ベストはここ最近本当にずっと頑張ってきた。

 学窓へ行くのも、何かを知る事も、あんなに怖がっていたベストが勇気を出して学び続けたのだ。それもこれも、きっと全てプラスの為なのだろう。

 

 好きな人の為に、ベストは頑張って来た。そう思うと、俺はとても誇らしい気持ちになる。

 

「……」

 

 俺はチラと未だに黙りこくるプラスへと目を向けた。

 拒絶するように組まれていたプラスの腕は、未だにそのままだ。その瞳も、頑なに瞼の下である。

 

 ただ、先程までグラスの中に殆ど残っていた筈のルビー飲料は、今や氷だけになってしまっているではないか。

 一体、いつの間にそんなに飲み干してしまったのやら。

 

「アウト、お前は俺に神官になって欲しいと思うか?」

「ん?」

 

 ベストのその小さな口から、これまた小さな声で俺に問いかけられる。やはり、その目はユラユラと揺れていた。

 それもそうだろう。こんな、まだ十歳にもなっていない子供に、自分のこの先、一生を左右するかもしれない選択を、大人が総出で迫っているのだ。

 

 不安になるなという方が無理な話である。

 

「俺が神官になれば、アウト達はもっと楽させてやれる。神官学窓は寮だから、今のように迷惑もかけないだろう。それに、お金だって……」

「ベスト」

 

 ボソボソと自信なさ気にベストの口から零れ落ちる言葉の欠片に、それまでベストの頭に添えていた自身の手のひらを、ベストの背中へと滑らせた。

俺はそのまま座っていた椅子から降り、床に膝をつく。そして、ベストと目線を合わせるように傍に寄ると、もう片方の手をベストの後頭部へと寄せた。

 

「大丈夫だ。何も心配いらない」

「……アウト。でも」

「ベストが神官になりたくても、なりたくなくても。もし、なった後に神官が嫌になっても。それとは逆に、最初は神官の道を選ばずに、けれど、やっぱり神官になりたいと思っても、俺達親のやる事は、何も変わらない」

「……そうなのか?」

「あぁ、そうさ。だって、どんな未来のどの場所でも、ベストが望むのであれば、俺が必ず傍に居る。俺がベストの選択肢を守るし、ベストの望む方を選ばせてみせる。大丈夫、こう見えて、俺ってちょっと凄いんだよ。ベストの為なら、きっと何でも出来ちゃう」

「……」

 

 俺はベストの痩せこけた小さな体に頬を寄せると、後頭部に添えていた掌に力を込めた。力をこめ、ベストの顔を俺の肩へと乗せてやる。

 そう、不安な時に自分を抱き締めて、そして受け入れてくれる人間が、この世に居るのだという事を、ベストには最後まで忘れないで居て欲しい。

 

「だから、難しく考えなくていい。簡単な事だ。十歳の、今のきみが選びたい方を選ぶ。遠い未来の自分の事まで今のベストが背負う必要はない。もちろん、俺達の事もそうだ」

 

——-なぁ、アウト。未来や過去を引け合いにして選ぼうとすると、怖くて何も動けなくなる。だったら、もう“今”だけ考えたらどうだ?

 

 お父さん、そんな事ばっかり言って。

 それが分からないから悩んでるって言ったのに。もう。

 

 あの時、俺はお父さんの言葉を聞きながら、むしろモヤモヤとしたものだ。どうしたら良いか答えをちょうだいよ!だって俺はマナ無しなんだから!

 

 そう、何度思った事か。

 けれど、その度にお父さんはその大きな体で、俺をギュッと抱きしめながら言ってくれた。

 

「きっと、自分に正直に、好きに、望むままに、なんて言われても、きっとベストを苦しめるだけかもしれない。けれど、やっぱり俺は敢えて言うよ。ベスト」

 

———ベスト、自由に生きろ。

 

 その瞬間、俺の耳元でベストの息を呑む音が聞こえた。しかも、ベストの後ろからはウィズまでもが目を見開いてこちらを見ている。

 

 まったく、何をそんなに驚いているのやら。

 また、俺がどこかの誰かさんにでも見えたのだろうか。こんなの、親ならどこの誰だって言いそうな、ありきたりな言葉だというのに。

 

「……あう、と。なぁ、アウト」

「ん?」

 

 俺は抱きしめていたベストが、ゆるゆると俺の体を押してくるのを感じた。その声は、たくさんたくさん震えている。どうしたのだろうか。

 俺はベストに押されるがまま、ベストから体を離した。離して、ベストの顔を真正面から見つめる。

 

「なんで、アウトは……俺にそこまでしてくれる?そんな風に言ってくれる?俺なんて、急にプラスが連れて来ただけの、縁なんて何もない、ただの浮浪児の、汚い子供だっただろう」

 

 そんな事を言うベストの口元は、言葉の合間合間に何かを耐えるように唇を噛んでいる。口に出してそんなに辛そうな顔になるなら、言わなきゃいいのに。俺は、またしても唇を噛むベストの、その小さな口にそっと手を触れた。

 

 するとその瞬間、ベストの噛み締めていた唇からフッと力が抜ける。

 あぁ、これで安心だ。余り噛むと傷付いてしまう所だった。

 

「ベストはさ、俺がずっと会いたくて会いたくてたまらなかった人に会わせてくれたんだよ」

「誰だ。俺は、別にアウトを誰かに会わせたりなんかしていない。俺は、アウトに何もしてやれていない」

「会わせてくれたよ」

——-お父さんに。

 

 俺の言葉に、ベストは戸惑いの表情を浮かべる。会わせた記憶なんてない、とでも思っているのだろう。けれど、俺はベストのお陰で、この短い間、何度も何度も“お父さん”に会わせて貰えたのだ。

 

「ベストに“父親”として接してる時、あの時のお父さんが一体どんな気持ちだったのか、俺は何度も教えてもらった。ベストに何か伝える時、お父さんだったらどう言うかなぁって何度も何度も、記憶の中のお父さんに聞きに行った」

「アウト、それは……」

「ベストが居なかったら、きっと俺はもう一生お父さんに会えなかった。だからさ、縁が無いなんて言わないでよ。上手に“お父さん”が出来てたかは分からないけど、ベストとの縁は今、大事に作ってる所なんだからさ」

 

 前世のない俺には、今しかない。

 だから、足枷となる“重し”も、繋がりと言う名の“縁”も、俺にとっては全て、今の君たちなんだよ。

 

「ベスト。俺の所に来てくれて、ありがとう」

 

 俺は最後にもう一度ベストの背に腕を回すと、力いっぱい抱きしめた。すると、どうだろう。都合の良い聞き間違いだろうか。幸せな空耳だろうか。

 俺の耳元で、か細い声で、けれどハッキリとした音が風に乗って聞こえてきた気がした。

 

 

 ありがとう、お父さん。