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インの熱が下がらない。
どう考えても、これはおかしい。
『っはぁ、っはぁ。っうぇ』
『イン。気持ち悪いか?吐きそうなんだな?』
『……だい、じょうぶ』
最近、街ではインと同じように、子供や年寄りが高熱にうなされバタバタと倒れていた。そして、今や、こうしてインにも同じような症状が現れている。
名も知れぬ流行り病が、この街の人々を次々と蝕んでいるのだ。
『はぁっ、はぁっ』
『……これは、いかんな』
インの様子が変なのは分かっていた。けれど、それはオブがこの街を去ったせいだと、ずっと思っていた。
オブが居なくなって、インは本当に光を失ったみたいに元気が無くなってしまったから。そして、その気持ちは俺も痛い程わかっていたから。
しばらくソッとしておこうと思った。だから、気付けなかった。気付いてやれなかった。
気付いた時には、もうインはベッドから起き上がれなくなっていた。そこからは、コロコロと坂を樽が転げ落ちるように、インの容態は悪くなっていくばかりだった。
まるで、摩擦力を失った向心力のように。
この村で、インと同じ症状になって治った者は居ない。それだけでも恐ろしいのに、どうやらこの病は人から人へと移ってしまうようなのだ。
家族の一人がかかると、弱い者から順に、家庭内で感染者と死者が後を絶たず増えていく。街の誰もが、既にその事に気付いていた。だから、家族の誰かがかかったらもう、次は自分かもと怯えながら生活をしているのである。
『はぁっ、はぁっ』
今尚、ベッドの上で頬を上気させ荒い呼吸を繰り返すインの姿。その姿に、俺は俺の中に湧き上がってきた一つの冷酷な現状把握の思考に、真正面から向き合う事になった。
——-このまま、インをこの家には置いておけない。
過った考えに、俺はゾッとした。
俺は、今何を思った。我が子に対して、何を冷静に、そんな。
——-家族が生き残る為には、インを切り捨てるしかない。そうしなければ。
『っくそ!』
俺は床を拳で殴りつけた。俺は野生の獣じゃない。人間だ。だったら、どうしてそんな冷酷で、非道な選択を平気な顔で出来よう。
——-でも、このままでは。ニアやヴィアまで。そして、俺まで。
俺が死んだら、あの二人は女二人でどうやってこれから生きて行く?
あぁ、ニアにはフロムが居るかもしれない。けれど、ヴィアはどうだ。もうヴィアには帰る家も、家族も俺以外居ないというのに。
『……』
俺は頭の中を巡る嫌な考えを振り払うように、寝室を飛び出した。
インの熱は、明日には下がるかもしれない。インは成人前の子供とはいえ、もう殆ど大人だ。そう簡単に死んだりはしないだろう。
そうだ、ひとまず熱を下げてやらねば。
俺は暖炉の傍で身を寄せ合うようにして眠るニアとヴィアを起こさぬように、井戸へと向かった。外へ出ると、月明かりが街全体を明るく照らしている。
そのせいで、俺は共同の井戸へ向かう途中に、各々の家の前に掛けられた黒い布が、また一つ、また一つと増えているのに気付いてしまった。
こんなに月が夜を照らさなければ、気付く事もなかったのに。
『こんなもんか』
俺は井戸からキンキンに冷えた水をくみ上げると、持っていた桶いっぱいに水をため、また家へと戻る。
——-インを、切り捨てろ。いらぬ感情に流されるな。人間の感情には“無駄”が多い!
腹の底に住まう、もう一人の俺が叫ぶ。叫び散らかす。
ニアやヴィアの為。家族の共倒れを防ぐため。夫として、父親として。
そんなご立派な理由の壁を、腹の底に住まう、その小さなスルーは軽々と乗り越えて叫んだ。
——-ニアやヴィアの為?ちがう!俺は、俺が死にたくないんだ!だって、俺はインよりも俺の方が可愛いんだから!
『……ちがう、ちがう、ちがう』
激しく歩いたせいで、桶に入った水が手にかかる。
『つめたい』
俺はその冷たさで少しだけ冷静になると、ともかく家に帰る事にした。まずはインの熱を下げてやらないと。きっと、今は物凄く体があつくて苦しんでいるだろうから。
そう、今度こそ水を零さないように、そっと俺はインの寝ている部屋へと戻った。
『……お、とうさ』
『ん?どうした?俺が居なくて寂しかったか?』
部屋に戻った瞬間、それまで苦し気な呼吸ばかりを繰り返していたインが、俺を呼んだ。きっと、目を開けた時に俺が居なくて心細かったのだろう。インは熱が出るといつもそうだった。小さい頃からずっとそう。
『熱いだろ?井戸に水を汲みに行ってたんだ。頭の布を交換しないとな』
『おと、さん』
『んー?』
俺がインの頭の上にのっていたボロ布を取って、汲んで来た井戸の水の中に浸す。すると、一瞬にしてそのインの熱で乾きかけていた布が一気に冷たい水分を含んだ。
冷たい。あぁ、冬だ。寒い。冷たい。
『おれ、なやに、いくよ』
ギュッと布を絞っていた俺の耳に、インのか細い声が響いて来た。なんだって?今、インは一体何と言った?
『……イン、熱いだろ。ほら、冷たい布だ』
『するー』
『……』
インが俺の名を呼んだ。二人きりの時、男同士の大事な話の時。その時は、お互いの事は名前で呼び合おうと、そう、インと約束していた。
『おれね、わかって、るよ。するー』
『……』
『だって、おとこどうし、でしょ?』
『……そう、か』
そうか。と、俺はそれしか言えなかった。しかも、インの顔も見ずに。
『行って、くれるか』
『う、ん』
途切れた肯定は、たった十四歳で一人で死んでくれと、親から頼まれた子供の悲痛な想いが込められていた。
本当は否定して欲しかっただろう。ダメだ、行くな、此処に居ろと。そう言って欲しかっただろう。
けれど、俺はそれを口にしてやれない。
そうして、俺はそんなインの頷いた時の顔ですら、見てやる事は出来なかった。
冷たい井戸の水に触れた手は、もう寒さでかじかみ、何も感じなくなっていた。
〇
インが死んだ。
一人で死んだ。
納屋で、体を丸めて死んでいた。
最後に見たインとは比べ物にならないくらいに、そのインは痩せこけていた。
そんなインの死体を見て、俺が思ったのは『冬で良かった、でなければ腐っていただろうな』という、感情など一欠けらもない死体への感想だけだった。
俺はすぐにインの死体を家の奥に作った穴に放り投げると、すぐに土で蓋をした。
最後まで、俺はインの目を見る事は出来なかった。
カサリと、俺のズボンのポケットに入っている紙がこすれる音がした。
——どうぞ。父からの手紙です。意味が知りたければ、いつか父にでも聞いてください。
そう、手紙を渡された時に言われたオブの言葉が頭を過る。
カサリ、カサリ。
俺が動く度に、手紙が俺を呼ぶ。
俺は聞こえないフリをしながら、ソッと手で触れる。これを見てはいけない。これを見たら、俺は俺を保っていられなくなる。
あぁ、これで俺はアイツとの約束を果たせなくなった。