〇
ニアがフロムと共に街を出て行く日。
俺は見送りすら行けずに、誰も居ない部屋で一人ぼんやりと暖炉の前の椅子に腰かけていた。
そんな俺の元へ、フロムが真剣な顔で訪ねて来た。
その姿は、まるで父親のオポジットのようで、もうあの小さかった子がこんなに大きくなったのか、と何だか非常に感慨深い気分になった。
もし、インが生きていたら――。
そう、考えかけて俺は首を横へ振った。そんな事を考えても何の意味もない。すると、そんな俺に対し、フロムは力強く言った。
『ニアは、必ず俺が幸せにします』
その言葉に、俺は最後に一つだけ俺を俺たらしめていた肩の荷が、フワリと降りるのを感じた。そうか。ニアはフロムが幸せにしてくれるのか。
だったら、もう俺の“役割”は全て終わった。
『そうか。フロムが約束してくれるなら、もう……安心だ』
『はい。絶対に約束は守ります。だから、ニアの事は心配せずに、おじさんもやりたい事をしてください』
『……やりたいこと?』
フロムが何を指してそう言っているのか、俺は全く分からなかった。
『歌を歌ったり、踊ったり。もっと、自分が笑っていた時の事を思い出して。ニアも、心配しています。でも、自分の言葉じゃ、何も伝わらないだろうからって、代わりに俺が来ました』
『うた?おどり?ニア?』
なんだ、それの何が楽しいというのだろう。
確かに、一時期そういったモノに楽しさを覚えていた事もあったが、今の俺にはちっとも理解できない。
それに、ニアが俺を心配しているなんて、そんな事ある訳がない。ニアは俺を憎んでいるのだから。
『……そんなわけ、』
そこまで口にして、目の前の青年が、あのオポジットの息子である事を思い出した。思い出して合点がいった。
『俺の親父も、おじさんの歌は好きだったんですよ』
『オポジットが?』
『そうです。良い歌だなって、よく言ってました』
『……そう、か』
オポジット。
彼は非常に勇敢で、誰からも慕われ、そして優しい男だった。
そう、“だった”のだ。
まさか、そんなオポジットまでもが流行り病で逝ってしまうとは思わなかった。
野蛮野蛮と幾度となく言い放ってきた相手が病に倒れ、俺自身が生き残っている。あぁ、まったく。本当に野蛮なのは、俺じゃないか。何を差し置いても生き残って。もう野蛮を通りこして、惨めだ。
『……あぁ、そうか』
フロムは優しかったオポジットに、とてもよく似ている。これはフロムの嘘だ。
ニアを連れて行って、俺を一人にする事への罪悪感と優しさで、フロムが俺に気を遣っているに違いない。
だったら、俺も騙されてやらねばなるまい。
『わかった。これから、うたったり、おどったり、たのしいことをしよう。おれの、やりたいことをしてすごすよ』
『…………』
そう、フロムの言葉をなぞるように口にしてやれば、フロムの表情がなにやら歪んだ気がした。どう、歪んだのかは分からない。
この頃になると、俺は目を逸らさなくとも、相手の事を視界から排除する事を覚えていた。だから、もう俺は、この時だってフロムの事は見ちゃいなかった。
『どうか、ニアをしあわせにしてやってくれ』
最後に俺はどうにか、父親っぽい事を言ってフロムを見送る事が出来た。
カサリと、俺のズボンのポケットに入っている紙がこすれる音がする。
カサリ、カサリ。手紙が俺を呼ぶ。
それを、俺は聞こえないフリをした。
〇
ニアとフロムが街を出て行ってから二年ほど過ぎたある日の事だった。
フロムが、またしても俺の元を訪ねてきた。
とは言っても、最初にフロムが家を訪ねて来た時、それが誰だか俺は分からなかった。
『……突然、すみません』
『……だれだ?』
『は?』
『あぁ……もしかして、そのこえは。フロムか?』
その頃には、俺は余りモノが見えなくなっていた。きっと、様々なモノから目を逸らし続けたせいだろう。俺が視界の中で認識できるモノは、光くらいになっていた。
『どうした?』
俺が多分フロムだろうと思われる相手に尋ねると、そこからフロムはポロリポロリと、これまでの二年間の事を口にした。
どうやら、ニアが死んだらしい。
ニア、俺の娘。
どうして、ニアが。あ、そうか今、フロムはニアが自殺したと言っていた。
こどもが産まれて、すぐに死んでしまったから、そのせいで。
『そう、か』
ニア、ニア、ニア。
こどもが自分よりも先に死んだら、そりゃあ悲しいだろう。そうだろう。あれ?ニアは俺の娘じゃなかったか。じゃあ、俺は何で生きているんだ?
フロムと居ればお前は幸せじゃなかったのか。
フロムはニアを幸せにすると言わなかったか。
『あぁ。コレも嘘か』
『え』
『フロム。ニアを幸せにするという約束も、あれも嘘だったんだな』
『っ!』
そうかもしれない。あの時のフロムは俺に気を遣って嘘をついていた。ニアが俺を心配しているなんて、嘘をついて。
だから、きっと『ニアを幸せにする』という約束すらも、フロムにとっては嘘だったのだ。あぁ、フロムはとんだ嘘つきだ。
『あ、あ、ぁ。お、おじさん……ご、ごめんなさ』
『おれは、だまされたんだな』
フロムの謝罪が、震える声と共に俺へと向けられる。
けれど、もうそれも俺にはどうでも良い事だった。
俺の足元で、あの立派な男の息子が蹲って大声で泣いていた。泣いていられるうちは泣いていればいい。涙は自分がまだ人間で居られている証だ。
そうか、俺はもう本当に一人になってしまったんだな。
カサリと、俺のズボンのポケットに入っている紙がこすれる音がする。
カサリ、カサリ。手紙が俺を呼ぶ。
それを、俺は聞こえないフリを――