332:おてがみ

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『なぁ、ヨル?これは何と書いてあるんだ?』

『それか?それは“傾斜角”と書いてある。モノの傾きの事だ』

『傾き……じゃあ、これは?これは何と読む?』

『ふふっ。少し待っていろ。この計算が終わったら教えてやる』

 

 

 そうやって、ヨルは俺にたくさんの文字を教えてくれた。紙の上に踊る、線と点の組み合わせは無限大で、まるで絵のようだった。

 

——–どうぞ。父からの手紙です。意味が知りたければ、いつか父にでも聞いてください。

 

 そう言ってオブから手渡された小さな紙は、何度も何度も俺の事を呼んだ。

 けれど、開いたのは最初の一回きりだった。なにせ、これを開くと、俺は心が壊れてしまうのだ。

 

 いや、違う。

 壊れて動かなくなってしまった心が“治って”しまう。

 それだけの力が、このヨルからの手紙には籠っている。

 

 だから、ずっと見なかった。無視してきた。

 俺は今にも崩れ落ちそうな程ボロボロになった、一人きりの家の中で、テーブルの上に体を預けた。

 

 もう何年も薪などくべられる事のなかった暖炉。

 何も飼われていない鳥籠。

 料理の作られる事のない台所。

 子供達の声の聞こえない寝室。

 

 暖炉の傍の椅子に、たった一人きりの俺。

 その姿は、まるでヴァーサスが死んだ後の、あの俺の親父と呼ばれる男の姿そのものだった。結局、俺はアイツとまるで同じ人生を歩んでしまったというわけだ。

 

 あぁ、なんて惨めなんだろう。

 俺は窓から入り込んでくる月明かりを、何も映す事のない瞳で感じながら決意をした。

 

 崖に行こう。

 そもそも、どうして今まで俺はそうしなかったのだろう。

 ずっと一人で、惨めに生き残って、俺はもう何の為にも生きられないというのに。

 

 そう、決意した俺はフラリと椅子から立ち上がった。

 すると、また、“あの”音がした。

 

 カサリ。

 

『……あぁ』

 

カサリと、俺のズボンのポケットに入っている紙がこすれる音がする。

 カサリ、カサリ。手紙が俺を呼ぶ。

 

 最期だし、いいか。どうせ見えないし。

 俺は手紙の呼ぶ声に、思わず手を引かれるようにズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 カサリ、手に一枚の紙が触れる感触が走る。

 

 ボロボロになった一枚の紙が久々に月明かりに照らされた。暗くてよく見えない。まぁ、明るくたって見えないんだろうけれど。

 俺はそんな事を思いながら、もう一度椅子に腰かけた。腰かけて、ちょうど月明かりの差し込むテーブルの上に、その手紙を置いた。

 

『あ』

 

 線と点が、見えた。

 いや、見えた気がしただけだ。実際に見えたわけではない。ただ、これは俺の記憶だ。最初にコレを見た時の、あのヨルの書いていた線と点の綺麗な流れが、頭の中に浮かび上がってくる。

 それと同時に、頭の中を駆け巡る記憶に俺はもう、息が止まった。

 

『なぁ、ヨル。これは何て書いてあるんだ?』

『あぁ、それか?それはな、』

——スルーと、書いてある。

 

 ヨルはたくさんの言葉を俺に教えてくれた。別に一から十までコレはこう、と丁寧に教えてくれたわけではない。

 けれど、尋ねていけば少しずつ、法則みたいなものが見えてきた。だから、俺も少しだけなら、簡単な文章は読めるようになっていたのだ。

 

 

『スルー、会いたい』

 

 

 ヨルの声が、聞こえた気がした。

 なんで、俺がこんなに辛い中、こうして惨めに生きて来たのか、思い出してしまった。俺は拳を作って、テーブルを何度も何度も殴った。

 もうその拳には、殆ど力なんて籠っていなくて、俺の気持ちの僅かすらも表してくれない。けれど、殴らずにはおれなかった。

 

『おれぇもっ、あいだいっ!』

 

 また、心が人間に戻ってしまった。死ねなくなってしまった。微かな希望が、これを見ると眩しく輝いてしまうのだ。何も見えなくなった視界の中でも、強く、明るく、また幸福になれるかもしれない、と。

 

『ごれはっ!うぞだっ!だっで、ぜんぜん、ごないっ!』

 

 妻と息子を見殺しにして、娘の死に何も感じなかった父親が、何をまた自分一人幸福になろうとしているんだ。

 野蛮で、醜く、本能のまま生きる、俺はケダモノじゃないか!

 

『うぞつぎぃっ!』

 

 挙句、こうして会いたいと願うヨルにすら俺は理不尽な憎しみを抱いている。何が嘘つきだ。だって最初に約束破りをしたのは、俺の方じゃないか。

 

 

———互いに家族を幸せにしたら、絶対に俺はお前の元へ行く。そしたら、もう俺達は自由だ。

 

 

 だって、誰一人として、俺は家族を幸福にはしてやれなかった。だとすれば、ヨルが会いに来ないのは、むしろ“約束通り”だ。それなのに、俺は悔しくて、悔しくて。何度も、何度もテーブルを殴る。

 

 その勢いで、ヨルからのおてがみがヒラリと風に舞った。見えないけれど、音と光の反射で分かる。

 

『あっ!』

 

 こんなモノがあるから俺は潔く死ねなかった。こんなものがあるから、僅かな希望に縋って苦しみの中を生きなければならなかった。こんなものがあるから!

 

 ガタン。

 

 俺は落ちて行くヨルからのおてがみを追って、必死に手を伸ばした。その拍子に、俺は椅子から転げ落ち、床に倒れ込む。

 

『っつぅ』

 

 俺は激しく床に打ち付けた体に、眉を顰めた。痛い。物凄く、痛い。ただ、その手にはヨルからのおてがみが、ちゃんとあった。それを肌で感じて、俺は心底ホッとした。

 

——-スルー、あいたい。

『……ヨル。あいだいよぉっ』

 

 こんなものを、俺は手放すことすら出来ない。必死に両手に戻ってきた、ボロボロの紙切れ一枚が、俺にとっての唯一の“希望”と“絶望”だった。

 

『っうあぁぁぁっ!』

 

 カサリと手の中で手紙が俺を呼ぶ。

 おかげで、今日も俺は死ねなかった。