340:心が死んだハレの日

 

 

「いん?」

「……」

 

 床に倒れ込んだインに俺は触れようと手を伸ばした。

 すると、刻印のせいだろう。俺の手はアイツのマナでバチリと弾かれた。弾かれて、俺の手には、その瞬間焼けただれたような痕がつく。

 

「やめろ。もうお前はその子には触れられない」

「……いん」

「お前は明日、罷免議会にかけられる。神官を罷免されたら、お前は一生教会から出る事は叶わない。ただ、死ぬまで生きてもらう」

「……いん?扉は開けたらダメって、あれほど言ったのに。わるいこだ」

 

 手がビリビリする。

 その感覚がとてもうっとうしく、俺は激しい痛みという不愉快さを取り除くため、その痛む手に力いっぱい拳を作った。

 

 すると、俺の手のひらにあった火傷の痕が一瞬で消える。

 あぁ、良かった。あのマナから与えられる痛みは不愉快で仕方が無かったんだ。それこそ、腸が煮えくりかえりそうなほど。

 

「いん、あとでせっきょうだ。約束やぶりはいけないんだぞ?」

「おい、聞いてるのか」

「いん。おいで。行こう」

「おいっ!お前!」

 

 俺はもう一度インの体に触れてみる。もう、今度は痛くない。そのまま俺は、インの体を抱き上げた。くすんだ瞳で天井を見上げるインの背を、俺はゆっくりと撫でる。

 俺の腹の底はずっと、ずっと谷底に落ちているような感覚だ。

 

「……なんで、俺の刻印があるのに」

「お前が、弱いからだよ」

「は?」

 

 俺はインの首筋に打ち込まれた刻印に、沸々と湧き上がってくる感情を抑え込みながら、その印にそっと口づけた。こんな汚らわしいマナは、俺が食べてやろう。

 あぁ、大丈夫さ。俺は丈夫だから。簡単には死なないし、死ねないから。

 

 すると、俺の口付けと同時に、インの首筋にあった刻印も綺麗サッパリ消えた。初めてやったが、意外と簡単じゃないか。他者のマナを食い尽くすなんて。

 

「な、んだと」

「バカだよなぁ。俺」

 

 イン、イン、イン。

 もう此処から一緒に出て行こう。ここは汚な過ぎてダメだった。最初からこうすれば良かったのに、俺は本当に愚か者だ。お父さん失格だ。

 ダメな父親だ。

 

「俺はなんで、俺の話なんか聞いてくれない奴らの決めた決まり事を守って、この子を守れなかったんだろう。馬鹿だなぁ」

——本当に、俺は愚か者だ。

 

「教会があるから、マナの有無に支配される。教会があるから、子供達が不幸になる。教会があるから、差別が生まれる、教会さえなければ、

 

 

 お前らさえ居なければ」

 

 

 その瞬間、俺の腹の中にあった崖が、もっともっと深くなった気がした。

 落ちても、落ちても底にはたどり着けない奈落の闇。元々真っ暗だった俺の腹の底は、その時、更に深くなってしまったのだ。

 

 ただ、最後に見た全てを飲み込むような七色の光は、あの大聖堂のガラスのキラキラした反射のようで、とても、とても

 

綺麗だった。

 

 

        ●

 

 

 そこからの記憶はとても曖昧で、とてもぼんやりしている。

 ただ、自分達で決めた縁起の良いハレの日に、一つの教会がこの世から消え去ったという事だけはハッキリと分かった。

 

 皮肉で、笑える。

 

 ただ、気付けば俺はぐったりとしたインの体を抱えたまま、どこかの森の中に居た。今度こそ、俺はインだけは守り抜いた。

 そう、インだけ。俺の抱えて来た子供は、インだけだった。それが俺の限界で、俺の全てだった。

 

「イン、イン、いん、いん」

 

 そう、誰も居ない森の中で裸の我が子を抱えて何度も何度もその名を呼ぶ。けれど、結局インがその後、その可愛らしい口から、再び「おとうさん」と、俺の事を呼んでくれる事はなかった。

 

 結局、心の死んでしまった子は生きてはいけないのだ。

 

 悲鳴と、絶叫。涙と、自傷。

 俺すらも分からなくなってしまったその子は、最後の最後は、納屋に居た時のインと同じようにやせ細って死んでいった。

 

 けれど、あの時と違うのは、あの時は俺がインから目を逸らしたが、今回はインの方から目が逸らされ続けたという事だ。きっとインには、俺があのケダモノ達と同じに見えたのかもしれない。

 

「そっか。もう、何も見たくないか」

 

 弱り、抵抗する事すら出来なくなった小さなその子は、ただ一心に俺と、世界の全てから目を逸らしているように見えた。

 

 だから、インが呼吸を止める最後の瞬間、俺は見開かれたインの目の上に、そっと手を置いた。もう、何も見なくていい。怖い世界からは目を逸らしていい。

 

 辛かったな。怖かったな。ごめんな。

 お父さんなのに。何も出来なかった。俺が拾って来なきゃよかったな。同じ布団で寝ることも、男同士の内緒のお話も出来なかった。

 

「イン、おやすみ」

 

 俺はインの額におやすみの口づけを落とすと、もうモノになってしまった我が子の体を地面に置いた。俺も、そろそろ目を閉じていいだろうか。救いのないスルーの記憶からも、全部間違えてやり直したいと願う今この瞬間からも。

 

「やっぱり、俺は悪いヤツだから、幸せにはなれないんだ」

 

 スルーも、今の俺も。

 どうせ幸せになれないのなら、せめてこの辛い記憶の楔からだけでも目を逸らしたい。本当は死んでしまいたかったけれど、本能でそれが出来ない事を悟った。

 

 俺はどこまで行っても愚か者だ。やっぱり我が子が死んでも、後を追う事も出来ない。

 だって、俺は我が身が一番、可愛いのだから。

 

———あぁ、そうだな!俺は俺が一番可愛い!

 

 そう言って笑いかけてくるスルーに、俺は吐き気を催した。何を笑っているんだ。子供を見殺しにしてきた親の癖に。何を、笑ってる!

 こっちの俺は笑いたくても笑えないのに!こんなに苦しいのに!お前ばっかりいつも笑って!

 

 お前ばっかり!俺だって、俺だって、俺だって!

 何もかも忘れて笑っていたいのに!

 

「そうだ。良い事を思いついたぞ」

——-どうした?また別のインでも探しに行くか?そして、またお父さんごっこでもして遊ぼうか?

 

 本当に、嫌なやつだ。

 こんなヤツ、居なくなってしまえばいい。嫌な奴は、見たくない奴は、崖の底に落っことしてしまえ。

 

「落っこちろよ、スルー。お前が居ると、俺はもう辛いんだ」

 

 俺は目を閉じた。腹の底にある更に深くなった崖の底。

 そこで、俺は全ての過去を背負い、いつもいつも俺に嫌な言葉ばかりを投げかけてきた“スルー”の体を思い切り押してやった。

 

『いやだっ!忘れたくない!』

 

 そう言って“俺”に向かって手を伸ばしてくるスルーから、俺は目を逸らした。

 押した俺が誰になるのかは分からない。分からないけれど、やっぱり俺は俺が一番可愛い。だから、俺を苦しくするやつは崖の底におっこちてもらうんだ。

 

 そう思った時だ。

 

『あれ?』

 

 いつの間にか落ちそうになって手を伸ばしているのは“俺”の方だった。

 あれ?あれ?あれれ?

 俺はスルーを突き落とした筈じゃなかったか?

 

 そう、崖の上を最後にチラと見た時目に入ったのは、また別の新しい“俺”だった。その時になって俺はようやく気付く。

 

『あぁ、そういえば。スルーが俺だった』

 

 嫌な事を言って俺を苦しめたのも、嫌な事から目を逸らしたのも、インを、家族を幸せに出来なかったのも。

 俺自身を不幸にしたのも。

 

『ぜーんぶ、“俺”だったな!』

 

 俺は手を伸ばすのを諦めると、そのまま底のない奈落の闇へと落ちていった。

 

 

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