342:臆病な父

 

        〇

 

 パラリ。

 

 郵便飛脚により、定期的にもたらされる、あの街の情報。

 否、あの街に住む、スルーの情報。それを、俺はいつも震える手で捲る。

 

 パラリ、パラリ。

 

 その日もたらされた情報では、スルーの家の籍から、また一つの籍が消えていた。

 スルーの娘が、オポジットの息子と婚姻したらしい。婚姻して、どうやらこの帝国にやってきているとの事だ。

 

『スルー、一人で平気か?』

——平気なわけがないだろう。

 

 スルリと、スルーの名だけが記載された籍枠を指でなぞる。

 ここには本来四つの名が記されている筈だった。

 

『さみしく、ないか?』

——さみしいに決まっている。

 

 けれど、今は一つ。

 スルーだけ。

 一人ぼっちだ。

 

『歌は、歌っているか?』

——-俺はお前の歌が、今でも耳の奥から聞こえてくるんだ。

 

 情報は、ただの事実の列挙だ。

 まぁ、事実でない事もあるが、情報には感情などの不要な情報は記載されない。だから、俺の問いに答えてくれるような情報は、ここには記載されない。

 

 手紙ではないのだ。当たり前と言えば当たり前である。

 

『笑って、いるか?』

——-笑うお前の顔が、見たい。

 

 知りたければ、会いに行くしかない。

 そんな事は分かっている。家族を幸せにしたらとか、約束がどうだとか、そんな事はどうでもよくて、今すぐ馬でも何でも走らせればいい。

 

———でも、もう二度と会えません。死んだ人には二度と会えない。

 

 壊れてしまった息子の言葉が脳裏を過る。

 

 大丈夫だ、スルーは生きている。

 そう、アイツはまだこの世界に存在しているのだ。だから、会いに行けば、会える。話せる、触れる事だって出来る。

 なのに――。

 

『……スルー、スルー。スルー。俺は……怖い』

 

 お前に会うのが怖い。

 

——–ごわぃ、ひどりは、もう、いやだぁっ。

 

 そう言って、別れを前に、あの納屋で体を丸めて泣くお前の姿が頭から離れない。あんなに弱く、頼りなく、寂しがりで、傷だらけの男が、もう今や本当に一人ぼっちになってしまったのだ。

 

 ならば、会いに行ってやればいいだろう!

 心のどこかで、俺自身が俺へと叫ぶ。苛立ったように口にされるその声に、俺は耳を塞いだ。

 

『お前が、もう……あの頃のお前ではなくなっていたら、俺は……俺も、オブのように心を保てないかもしれない』

 

 そうなのだ。

 結局、俺がこの扉の開いた鳥籠から出ないのは、外に出て俺が傷つく事を恐れているからだ。この貴族という生き方、家の有り方が俺の自由を奪ってきたと、そう、ずっと思ってきた。

けれど、むしろ俺が煩わしいと思っていたその鳥籠は、臆病な俺を守る俺の用意した鳥籠に過ぎなかった。元々、誰も俺を縛ってなどいない。

 

 俺が自ら望んで、縛られたのだ。

 

『スルー、会いたい。会いたいのに、もう、俺は……怖くて、動けない』

 

 心のままに生きる生き物達に惹かれた。

 心のままに大空を舞う鳥に憧れた。

 いつも笑顔で、軽やかに、美しく、傷だらけになりながらも賢明に生きるお前を、俺は愛した。

 

 籠の中に居る俺の傍まで来て、手を伸ばしてくれたのはいつもお前からだった。籠の外から、籠の鳥である俺に、歌を歌ってくれたのもお前。

 

『……スルー、愛してる。会いたい……会いたいんだ』

 

 その愛は、まさに俺の心のままだった。

 

『でも、あえないっ』

 

 そう、会えない。

 なにせ、俺は籠の外には出る事が出来ないのだ。臆病で怖がりな俺は、スルーに会いたいと言いながら、そしてその実、スルーを恐れている。

 

『なぁ、スルー。お前は、あの頃のまま、か?』

 

 そう、俺は心のまま、俺の愛したあの頃のスルーを求めて会いに行って、俺の愛した“スルー”の変わり果てた姿を目にするのが怖かったのだ。

 心のままは、剥き出しだ。傷付く時は、何も俺の心など守ってくれない。

 

 だから、スルーはいつも傷だらけだった。俺に、あの生き方は無理だ。

 

『スルー、会いたい』

 

 俺は何を変える力も無い、口先だけの想いを述べながら、今日も籍情報の紙面に、スルーの名がある事に安心し、そして絶望した。

 スルーの名は、俺を希望と絶望の両者で縛り付ける。

 

『スルー、愛している』

 

 最早、その言葉すら、俺の心を守る為の免罪符でしかなかった。

 愛してるから、許してくれという。

 

 そう、身勝手な言葉でしかない。