『お父さん。この子の名前は一体どっちなんだ?ザン君?ヨル君?それとも、どちらとも違って全然別の名前があるのか?』
『えっ?』
『俺にも、なんとなく覚えがある。自分の中にたくさんの俺を作って、それぞれに名前を付けるんだ!俺は、ずっと一人だったからな。全部、友達を自分の中に作るんだ!』
『……するー、どうして』
ベストの声が、一瞬にして悲しみに染められる。
そして、先程まで泣いていたせいだろう。またしても泣きそうになる自分を叱責するように、ベストは自身の唇をギュッと噛み締めた。
『あわわわっ!また可愛い子が泣きそうじゃないか!どうした、どうした?俺は子供を泣き止ませるのが得意だと思っていたが、どうやらそれは間違いだったようだ!逆に悲しくさせてしまったな!ごめんごめん!』
『するー、なんで。どうして、おぼえていない?おれが、むかえにいかなかったから、おこっているのか?もう、おれのことなんか、おもいだしたくもないか?』
ユラユラと揺れるその声と、小さな体。
そんなベストの姿に、俺は胸がキュッと締め付けられた。どうやらそれは、スルーも同じだったらしく、目をこすって涙を止めようと躍起になるベストから、チラと俺の方へと視線を寄越した。
しかし、どう見てもその目は、何かを誤魔化すような色は見えず、本当にこのスルーは全てを忘れてしまっているようであった。
『……もしかして。キミは俺に会った事があるのか?』
スルーは、肩を揺らし、唇を噛み締めるベストに視線を合わせる為に、その膝を地面へとつけた。その問いかけに、ベストは泣くのを堪えながら小さくコクリと頷く。
そんなベストに、スルーはそれまでの明るい笑顔と口調を消し、その手で自身の顔を覆った。
『……やっぱりか。ずっと、何か大切な事を忘れてしまってるとは思っていたんだ』
『やっぱり?』
俺はベストとスルーの脇まで近寄ると、体を丸めるように顔を覆うスルーの背に、手を触れた。その体は暖かく、スルーがちゃんと此処で生きている事がハッキリと分かる。
このスルーはちゃんと生きている。この彼は、プラスの作り上げた幻なんかじゃない。
『あぁ。俺はずっと昔に此処に落っこちて来たんだが……その時、何か……大事なモノを落として来てしまったみたいなんだ』
『大事なモノ?』
『……そうだ。何かは分からない。いや、実を言うと落としたかどうかも分からないんだ。そもそも、そんなモノがあるのかも、よく、分からない』
『……』
言いながら、スルーは顔を隠していた両手をゆっくりと離し、地面へと付ける。
そして、どこまで続くともしれない、真っ暗な空を見つめ、その目を薄く細めた。
見上げる先は、何も見えない真っ暗な闇があるだけだ。
『けれど、確かに俺はナニか大事なモノを失くし、今はもう持っていないという感覚だけは、確かにあるんだ。今の俺に分かるのは、俺の名前が“スルー”という事だけ』
『名前は、憶えてるんだ?』
『あぁ、憶えてる。たくさん、呼んでもらったから』
——-誰に呼ばれたかは、忘れてしまったけれど。
そう、寂しそうに口にするスルーは、すぐにその表情を消し、その表情にニコと小さな笑みを浮かべて俺達を見てきた。
『お父さんの名前は?』
『お、俺のこと?』
『そうだ。キミはこの子の“お父さん”だろう?』
そう、インのお父さんでもあるスルーに真正面から尋ねられ、俺は少しだけ胸の中がくすぐられるような気分になった。そう、そうだ。俺はベストの、
『うん』
お父さんだ。
『そうか。……もしかしたら、君たちは俺が寂しくて作った幻の友達なのかもしれない。けれど、でも名前が知りたいんだ。君たちは“スルー”じゃないよな?』
『もちろん。俺はアウト。そして、この子は』
『……ヨルだ』
ベストはスルーの前では“ヨル”で居る事を選んだらしい。
俺は息子の、その急に頼もしくなったような背中に、ポンポンとその頭を撫でてやった。
『……アウト』
そんな俺に対して、ベストは……いや、ヨルは少しだけ気まずそうな視線を向けてくる。ベストだと口に出来ない事で、俺に対し申し訳なさでも抱いているのだろうか。そんな事、何一つ気にする必要などないのに。子供が、親に対してそんな事を思う必要はない。
俺は、ベストに対しても、たくさんの眼鏡を持つと決めたのだ。
『キミが誰でも、俺はキミの“お父さん”だよ』
『っ!』
カラン。また、俺は眼鏡を捨てた。
今、ここに居るのは大好きな人の心を救う為にやって来た、ヨルという一人の男だ。それでいい。俺は、この色の眼鏡で見るこの子も、大好きだ。
『アウト。ヨル。良い名前じゃないか。特に“夜”なんて素敵な名前過ぎてビックリした!アウトが付けたのか?こんな素晴らしい名前を思いつくなんて、まるでアウトは俺みたいだな!』
『あははっ!そっか!』
無意識のうちに自分自身を褒め称えるスルーに、俺はもう笑いを堪え切れなかった。隣のヨルも何やら苦笑しているようだ。その表情は、本当にオブとウィズにそっくりで、まだそんなに時間が経っている訳でもないのに、俺はむしょうにウィズに会いたくなった。
もちろん、そんな事は息子の前では言いはしないけれど。
『さぁさ!ここに座って空を見ながら話そう!今は曇ってて、星も月も見えないが、きっとそのうち雲が晴れて星と月が夜空を照らしてくれるはずだ!』
そういって、ごろんと地面に寝転んだスルーに、俺とベストは互いに目を見合わせた。
『ここって……』
『夜だったのか』
まさか、ただの暗闇だと思っていた場所は曇り空の“夜”だったらしい。
『まったく、本当にお前らしい』
ベストは赤く色付いた目尻に小さな皺を刻みながら、その手を口元へ当てた。その上品な微笑み方に、俺はやっぱり俺の月であるウィズを思い出してしまうのだった。