349:忘れてしまった男

 

 

『お父さん。この子の名前は一体どっちなんだ?ザン君?ヨル君?それとも、どちらとも違って全然別の名前があるのか?』

『えっ?』

『俺にも、なんとなく覚えがある。自分の中にたくさんの俺を作って、それぞれに名前を付けるんだ!俺は、ずっと一人だったからな。全部、友達を自分の中に作るんだ!』

『……するー、どうして』

 

 ベストの声が、一瞬にして悲しみに染められる。

 そして、先程まで泣いていたせいだろう。またしても泣きそうになる自分を叱責するように、ベストは自身の唇をギュッと噛み締めた。

 

『あわわわっ!また可愛い子が泣きそうじゃないか!どうした、どうした?俺は子供を泣き止ませるのが得意だと思っていたが、どうやらそれは間違いだったようだ!逆に悲しくさせてしまったな!ごめんごめん!』

『するー、なんで。どうして、おぼえていない?おれが、むかえにいかなかったから、おこっているのか?もう、おれのことなんか、おもいだしたくもないか?』

 

 ユラユラと揺れるその声と、小さな体。

 そんなベストの姿に、俺は胸がキュッと締め付けられた。どうやらそれは、スルーも同じだったらしく、目をこすって涙を止めようと躍起になるベストから、チラと俺の方へと視線を寄越した。

 

 しかし、どう見てもその目は、何かを誤魔化すような色は見えず、本当にこのスルーは全てを忘れてしまっているようであった。

 

『……もしかして。キミは俺に会った事があるのか?』

 

 スルーは、肩を揺らし、唇を噛み締めるベストに視線を合わせる為に、その膝を地面へとつけた。その問いかけに、ベストは泣くのを堪えながら小さくコクリと頷く。

 そんなベストに、スルーはそれまでの明るい笑顔と口調を消し、その手で自身の顔を覆った。

 

『……やっぱりか。ずっと、何か大切な事を忘れてしまってるとは思っていたんだ』

『やっぱり?』

 

 俺はベストとスルーの脇まで近寄ると、体を丸めるように顔を覆うスルーの背に、手を触れた。その体は暖かく、スルーがちゃんと此処で生きている事がハッキリと分かる。

 このスルーはちゃんと生きている。この彼は、プラスの作り上げた幻なんかじゃない。

 

『あぁ。俺はずっと昔に此処に落っこちて来たんだが……その時、何か……大事なモノを落として来てしまったみたいなんだ』

『大事なモノ?』

『……そうだ。何かは分からない。いや、実を言うと落としたかどうかも分からないんだ。そもそも、そんなモノがあるのかも、よく、分からない』

『……』

 

 言いながら、スルーは顔を隠していた両手をゆっくりと離し、地面へと付ける。

そして、どこまで続くともしれない、真っ暗な空を見つめ、その目を薄く細めた。

 見上げる先は、何も見えない真っ暗な闇があるだけだ。

 

『けれど、確かに俺はナニか大事なモノを失くし、今はもう持っていないという感覚だけは、確かにあるんだ。今の俺に分かるのは、俺の名前が“スルー”という事だけ』

『名前は、憶えてるんだ?』

『あぁ、憶えてる。たくさん、呼んでもらったから』

——-誰に呼ばれたかは、忘れてしまったけれど。

 

 そう、寂しそうに口にするスルーは、すぐにその表情を消し、その表情にニコと小さな笑みを浮かべて俺達を見てきた。

 

『お父さんの名前は?』

『お、俺のこと?』

『そうだ。キミはこの子の“お父さん”だろう?』

 

 そう、インのお父さんでもあるスルーに真正面から尋ねられ、俺は少しだけ胸の中がくすぐられるような気分になった。そう、そうだ。俺はベストの、

 

『うん』

 

 お父さんだ。

 

『そうか。……もしかしたら、君たちは俺が寂しくて作った幻の友達なのかもしれない。けれど、でも名前が知りたいんだ。君たちは“スルー”じゃないよな?』

『もちろん。俺はアウト。そして、この子は』

『……ヨルだ』

 

 ベストはスルーの前では“ヨル”で居る事を選んだらしい。

 俺は息子の、その急に頼もしくなったような背中に、ポンポンとその頭を撫でてやった。

 

『……アウト』

 

 そんな俺に対して、ベストは……いや、ヨルは少しだけ気まずそうな視線を向けてくる。ベストだと口に出来ない事で、俺に対し申し訳なさでも抱いているのだろうか。そんな事、何一つ気にする必要などないのに。子供が、親に対してそんな事を思う必要はない。

 

 俺は、ベストに対しても、たくさんの眼鏡を持つと決めたのだ。

 

『キミが誰でも、俺はキミの“お父さん”だよ』

『っ!』

 

 カラン。また、俺は眼鏡を捨てた。

 

 今、ここに居るのは大好きな人の心を救う為にやって来た、ヨルという一人の男だ。それでいい。俺は、この色の眼鏡で見るこの子も、大好きだ。

 

『アウト。ヨル。良い名前じゃないか。特に“夜”なんて素敵な名前過ぎてビックリした!アウトが付けたのか?こんな素晴らしい名前を思いつくなんて、まるでアウトは俺みたいだな!』

『あははっ!そっか!』

 

 無意識のうちに自分自身を褒め称えるスルーに、俺はもう笑いを堪え切れなかった。隣のヨルも何やら苦笑しているようだ。その表情は、本当にオブとウィズにそっくりで、まだそんなに時間が経っている訳でもないのに、俺はむしょうにウィズに会いたくなった。

 

 もちろん、そんな事は息子の前では言いはしないけれど。

 

『さぁさ!ここに座って空を見ながら話そう!今は曇ってて、星も月も見えないが、きっとそのうち雲が晴れて星と月が夜空を照らしてくれるはずだ!』

 

 そういって、ごろんと地面に寝転んだスルーに、俺とベストは互いに目を見合わせた。

 

『ここって……』

『夜だったのか』

 

 まさか、ただの暗闇だと思っていた場所は曇り空の“夜”だったらしい。

 

『まったく、本当にお前らしい』

 

 ベストは赤く色付いた目尻に小さな皺を刻みながら、その手を口元へ当てた。その上品な微笑み方に、俺はやっぱり俺の月であるウィズを思い出してしまうのだった。