350:ひがいしゃ×かがいしゃ

 

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 僕はすっかり忘れていた。

 記憶って、そんなに単純なモノじゃないって事を。

 

 僕みたいに、長い長い時の川の流れに乗って、石の角が削れるみたいに削られていった記憶なら、まだわかる。それは、マナの老化による自然現象だから。

 

 けれどね、そんなのは結局、長い時間を経て結果的に起こる自然忘却だ。

まだまだ一回目の若造が、この記憶だけ、あの記憶だけ、なんてそんなに都合よく忘れられる訳がない。

 

 記憶とはまさに、縦横無尽に張り巡らされた糸のように、一つ思い出せば、それに付随する別の記憶が呼び覚まされ、その呼び覚まされた記憶がまた別の記憶の糸を引っ張ってくる。

 

 そう。忘れる事を目的とした忘却に、制御は不可能。

 だからこそ、人は一つを忘れる為には全てを忘れ、一つ思い出せば――

 

 

 全てを思い出す事になるのだ。

 

 

 

        〇

 

 

 

『まったく!死ぬかと思ったぞ!せっかく気持ち良く寝ていたのに!俺の大事なオスが使い物にならなくなったらどうしてくれるんだ!あーやーまーれー!』

『ご、ごめんなさい』

『ぐぬぬぬ!素直に謝られたら、これ以上怒りにくくなるだろうが!謝るな!もっと怒らせろ―!痛い痛い!いたーい!』

『え、えぇっ!?』

 

 そう言ってプリプリとインに向かって怒り散らかすのは、腹の中に深い深い夜の世界を隠し持つプラスだった。

プラスはしゅんとするインを前に、理屈もクソもあったものじゃない屁理屈で、インに向かって怒り続けている。

 

『いーたーいーーっ!!』

『ど、どうしよう』

 

 ハッキリ言って戸惑いしかないインの視線が、バタバタと足を踏み鳴らす大人に向かってオロオロと向けられる。

 

 分からなくもない。

 こうも素直に謝られてしまっては、もう怒るに怒れない。まだまだ股間の痛みが続いているのであろうプラスにとっては、まだまだ怒っていたいのだ。

 だからこそ、その自分のどうしようもない怒りを、まだまだインに受け止めて貰いたいに違いない。

 

 まぁ、子供の癇癪と同じだ。

 けれど、その子供の癇癪を、同じ子供にぶつけたって受け止めきれる筈もない。幼い子供だって、その辺はよく分かっている筈だ。

 

 自分の癇癪を受け入れてくれる相手にしか、子供は癇癪を起したりはしない。

 この目の前のプラスは、子供以下だ。

 

『謝っちゃダメだけど、謝れって言うし。でも謝ると怒るし……オブ、俺はどうしたらいいのかな?』

『イン。こんな変な奴に関わっちゃダメでしょ。ほら、こっちに来て。話の通じない奴には何言っても無駄。早く行くよ』

 

 すかさず、インとプラスの間に割って入り、インを連れて行こうとするオブに、その瞬間プラスはヒュッとその癇癪塗れだった表情を消した。

 消して、一瞬にして焦ったような表情を浮かべる。

 

『いっ、行くな!』

『はぁ?なんで?別にもう謝ったしいいじゃん。俺達、アンタに用なんかないんだよ』

『……あ、あう』

 

 取り付く島もないオブの冷たい言葉に、プラスはしゅんと肩を落とす。どうやら、実は既に股間の痛みなんてものは、ずっと前に消えていたようだ。

 このプラスは、ただただ誰かと……いや、インと話しがしたかったに違いない。

 

 記憶の有無など関係ない。

 本能が、彼の中のマナが、インを求めている。外界のプラスが、自然とアウトに引き寄せられたように。

 

『ふうん?』

 

 ならば、やはりここはインにプラスをどうにかして貰うしかない。

 どうにかが、どういった手段なのかなんて、僕の知った事ではないけれど。

 

『まぁ、まぁ。オブ?そう邪険にしちゃあいけないよ?こっちは確かに加害者なんだからね。もっと誠意を見せないと』

 

 そう言って肩をすくめるプラスを前に言ってやれば、その瞬間プラスはパッと表情を明るくした。

 

『そっ、そうだ!キミの言う通りだ!この子はかがいしゃで、俺はひがいしゃだ!』

 

 その時、俺は確信する。どうやら、このプラスは、外の世界でのあの一件を機に僕の事も忘れる事にしたらしい。まったく、こんなにも記憶を綺麗に忘却できるなんて。まったく、本当に都合の良いマナだ。けれど、スルーを切り離した時のように、完全に人格ごと別固体を作ったわけでもなさそうだ。

 

 これは、ただの忘れたフリだ。彼の十八番。そして、僕の十八番でもある。

 あぁ、まったく。本当に子供みたいじゃないか。彼も、そして僕も。

 

 だからプラスを見ているのは嫌なんだ。強制的に、同族嫌悪ならぬ、自己嫌悪の穴に落っことされるのだから。見てられない。

 

 まぁ、ここまで来て、見ない訳にはいかないのだけれどね。

 

『まったく、かがいしゃのその子を勝手に連れて行くな!このドロボー!』

『はぁっ!?誰がドロボーだって!?』

『っひ!怖い!お前っ!子供の癖に顔が怖いぞ!』

『そもそもインは俺のなのに、なんでお前から泥棒呼ばわりされなきゃならないんだよ!?不愉快だ!腹が立つ!』

 

 思考する僕の隣で、なんとも惚気で論点のズレた事を言い始めたオブに、僕はなんだか肩の力が抜けた気がした。まったくこの子ときたら、聡明な癖にインが絡むと途端に知性が下がってしまうのだから。

 まぁ、それはオブの割れた瓜の片割れでもあるウィズにも大いに言える事だ。

けれど、それは二次創作の真骨頂だと思うのだが、彼らは自分達が紛れもない“原作”であると理解しているのだろうか。

 

『おっと、メタ思考は慎まないと』

 

 そう、僕が思わず口に出した言葉に、クスリと笑ってしまった時だ。それまで黙っていたインが、至極真面目な顔で自分の胸に手を当てた。

 

『俺は、かがいしゃ……』

『ちょっ……イン?あの年寄りの言う事なんか気にしなくていいから』

『でも、ヴァイスの書いたお話の、ひがいしゃ×かがいしゃっていうお話で、ひがいしゃのセメが「一生かけて償わせてやる、愛をもって」って言ってた。俺は一生をかけて償わなきゃいけないのかな……?愛をもって』

『なっ!……おいっ!?ヴァイス!お前、インになんて本を読ませてるんだよ!?インに悪影響だろうが!インも変に影響受けちゃって、ちょっと楽しそうだし!』

『今回のはちょっとダークなBLにしてみたよ!受けの罪悪感に付け込んで、被害者が加害者を自分の人生に縛り付けるっていう……読む?』

『誰が読むかよ!?』

 

 オブの怒声にも近い叫びが、俺の耳元に響く。

 なにさ、そんなに怒る事はないのに。インは今までハッピーエンドなお話しか読んでこなかったから、このお話のメリーバットエンドな所にちょっと惹かれちゃったんだろうね。

 

『つぐない……』

『イン?』

 

 先程まで多少の困り顔を浮かべていたインは、少しだけキラついた光をその目に湛え、プラスへと勢いよく向き直った。

 

『俺、ちゃんと償います!愛を持って!』

『お願いだから!ちょっと言いたいだけの台詞で物凄いこと言わないで!イン!』

 

 僕はその瞬間、最早思考を止め、この愉快な方向へと向かっていくであろう三人の会話を隣で楽しむ事にした。明日は明日の風が吹くように、きっと、この僕にも三人が良い風を起こしてくれるのだろう。

 そして、僕もその風に乗っからせてもらうことにする。

 

『なんでも言って!俺が貴方の願いを叶えてみせます!』

『イン!?』

『っ!いいのか?』

『いいよ!』

『イン!?』

『いくつでもか?』

『いくつでも!』

『イン!?』

 

 会話でもリズムは奏でられるものだと、僕は目の前の三人の会話を聞きながら思った。とても良い音階だ。特にオブの合いの手なんか最高じゃないか。

 

『じゃ、じゃあ……まずは』

『なんでも言ってよ!つぐなうよ!』

 

 そんなインからの笑顔満点の言葉に、プラスは先程までの戸惑い顔をひゅんと消し去ると、すぐにその顔に明るい笑顔を彩らせた。

 

『俺と一緒に、人を探してくれないか?』

 

 プラスはインへと一歩近づくと、嬉しそうな顔に、一瞬だけ悲しみの色を混じらせた。それは、忘れたフリでは消す事のできない、マナに刻み込まれた感情そのものだった。