352:幸福の一部

 

 

 スルーは言った。

 “幸福”が分からないと。でも、そんな筈はないのだ。

 ヨルが好きな人を幸福にする方法を知らない訳がないように、スルーもまたそうなのだ。

 

——-しあわせはまあるかったんだ。この中に、嬉しいとか、大切とか、大好きがいっぱいはいってるんだね!だったら、この丸はきっと腕なんだ!

 

 息子のインが知っていて、どうして父親のスルーが“幸福”を知らないなんて事が言えるのだろう。確かに、幸福を目に見える形にしたのはオブだった。けれど、インはちゃんと、オブに出会う前から“幸福”が何かを知っていたじゃないか。

 それは、スルーがインに、ちゃんと“幸福”が何かを教えてやっていたからだ。

 

 だから、知らない筈がない。

 けれど、全てを忘れてしまって分からなくなってしまったというのであれば、俺がまた一から教えてやるしかないだろう。

 

 だって、この二人は、今や俺の息子と妻なのだ。まぁ、こんな事を言うとウィズがまた怒りそうだから言い方を変えよう。

 だって、この二人は、今や俺の“家族”なのだ。

 

 俺は二人を“幸福”には出来ないけれど、幸福になる手伝いくらいならしてやれる。

 

『立ったぞ?アウト、一体何をするつもりだ?』

『今から、お前に“幸福”が何かを教えてやるんだよ』

『そうなのか!だったら、俺は何をすればいい?』

『スルーはただそこに居ればいい。今からヨルが教えてくれる。そして、スルーも、自分がしたいと思った事をすればいいんだ』

『アウト?おい、なんだ。何をする気だ』

 

 そう、体をよじらせて振り返ろうとしてくるヨルに、俺は『前を向きなさい』と、ピシャリと言い放った。そんな俺の言葉に、ヨルはビクリと体を揺らすと、振り返ろうとしていた体を、ユルユルと前へと戻した。

 

視線の先にあるのは、寂しさも、幸福も、何もかも忘れてしまったスルー。

 

『人には、恥ずかしい気持ちを乗り越えなきゃ、手に入らないモノがたくさんあるよ。ヨル。いや、』

——–金持ち父さん?

 

 最後だけ、コッソリとヨルにだけ聞こえるように、耳元で囁いてやる。すると、みるみるうちに、ヨルのその小さな耳がじんわりと朱に色付き始めた。まるで、酒に酔ったかのように。酩酊しているかのように。

 その瞬間、ベストを抱えていた俺の腕にかかる“重み”が、更に増した気がした。

 

——–さて、アウト。僕は金持ち父さん貧乏父さんの最終章の執筆の為に、その後の物語のネタを収集しなきゃならない。

 

 ここに落っこちる前に、ヴァイスが口にしていた言葉がフワリと風に乗って聞こえてきた気がした。

 

『ふふ。悪いね、ヴァイス』

 物語の続きは、俺の方が先に見せて貰えるかもしれない。

 

 俺はベストの体を抱えて、容赦なくスルーへと近寄った。

 

 さぁ!いつも待っているだけの“まさつりょく”だったヨルが、今度こそ“こうしんりょく”になる時がきた。

 腹を決める時が来たんだ。自分の心のままに外に出ないと、掴めないモノがあるのだから。

 

『……スルー』

 

 ヨルが震えながら、その小さな腕を広げる。そんなヨルに対し、スルーは大きく目を見開くと、すぐに誤魔化すようにヨルから視線を逸らした。

 

『よ、ヨル。なんだ、なんだ。だ、抱っこか?そうかそうか!俺が抱っこしてやろう!』

『スルー。違うよ。抱っこじゃない。まずは、そこから動くな』

『アウト、どうして、なんで。いけない。それは、いけない気がする』

 

 動くなと言ったのに、言ったそばからスルーは一歩だけ、小さく後ろに下がった。まるで、幸福から逃れるように。

 違うだろ、スルー。それは間違った“こうしんりょく”だ。お前は、それを昔ヨルから教わったじゃないか。

 

『頼む、逃げないでくれ。スルー』

『ダメだ……だって、俺は。いけないんだ。幸福になったら、いけない』

『どうしてだ!?』

 

 スルーはまた一歩、後ろへと下がる。

 それを、俺は追う。俺は早く続きが見たいんだ。【金持ち父さん、貧乏父さん】の続きを。

『またね』と手を振った二人が、約束を果たす所が見たい。だって、俺は単純だから、出来れば終わりも幸せであって欲しいと思ってしまう。

 

『だって、俺は……大切なものを落としてしまった、し。それに、や、約束を、したのに。誰も、幸せにして、やれたかった。うそつきは、幸せになったら、いけないんだ』

『……こんな場所でも、あの約束が。お前を縛るのか』

 

 スルーの言葉に、ヨルの開かれていた腕がビクリと震える。

 そして、絶望するように下ろされかけた腕に、俺は「まったく、本当に世話が焼ける」と、いつもウィズがするように肩をすくめる動作を、心の中だけでやってのけた。

 

『プラス、あのさ。一つ言ってもいい?』

『な、なんだ。アウト』

 

 俺は一旦、前へ進む足を止め、ヨルの顔の横からチラと顔を覗かせてスルーを見た。そこには、目の前にある幸福にすら、手を伸ばせなくなった臆病者の顔がある。約束を破ったから幸福になったらいけないなんて、そんなのただの言い訳だ。

 

 スルーはちゃんと憶えていなくても、憶えている。

 幸福だった日々の事を。この寂しさの広がる草原のその下には、やっぱり温かい幸福の土が眠っているのだから。

 

『幸福ってさ、誰かに“してもらう”ものじゃないよ』

『……そう、なのか?』

『そうだよ。俺のお父さんが言ってた。アウトを幸せに出来るのはアウトしか居ないから。お父さんの大事なアウトを不幸にしないでやってくれって』

『……そんな。親なら、子供を、幸せにしてやらなきゃ……ダメだろ。そんなのは、無責任だ。育児放棄だ』

『無責任なんかじゃない。俺はこう言われた時、物凄く嬉しかったよ』

『嬉しかった?』

 

 俺は、また心の中でお父さんの居る部屋を訪ねてみる事にした。

 

——あぁ、アウト。また来たのか。最近はよく来るな。今日はどうした?

 

 こうして、じょじょに重みの増す我が子の体を抱える事で、俺はやっぱり“お父さん”を鮮明に感じる事が出来るのだ。

 

——アウト、自分の事を幸福にする努力は怠ってないか?

 

 親は、永遠に子供と一緒には居てやれない。

 そうして、手を離し、サヨナラした子の背中を見送りながら、けれど自分もまた前へと進み続けなければならないのだ。

 

——好きな人は出来たか?いつまでも、お父さんお父さんじゃ、お前が本当に幸福になれないぞ。

 

 その場所が、もう此処ではないどこか別の世界であっても。

 前世のない、一度きりの人生を、“お父さん”もまた始めなければならないのだから。