353:少し、寂しい

 

 

『うん、嬉しかった!俺って、お父さんの幸福の一部なんだなぁって。そう思ったら物凄く、嬉しくて、嬉しくて……』

 

 人生というのは、いつだってそんなものだ。

 自分を幸せに出来るのは自分だけ。でも、そんな中で、自分の存在が誰かの幸福の一部なのだと知った時、それは、物凄く――。

 

『俺まで幸福になった』

『ぁ』

 

——–おれは、あうとの居ない、せかいなど、たえられない。

 

 ウィズの震える声が俺の幸福を、何度でも呼び覚ましてくれる。

 自分の幸福を願って足掻いた先に、誰かの幸福が共にあると知った瞬間、俺はやっと世界を受け入れられたんだ。

 

 そして、この記憶がある限り、俺は幸福だ。

 もし、ウィズとこの先さよならする事になっても、それは変わらない。俺は確かにあの時、ウィズの幸福の一部になれたのだから。

 

『いいんだよ。他の誰かの為に自分を犠牲にしなくても。その誰かの幸せを、自分の幸福の一部にして生きればいい。まるごと誰かの幸福を担おうなんて、そんなのただの支配だ。傲慢だよ。親は子供を支配する存在じゃない』

『……でも、でもっ!俺は、あの子たちをっ、幸福にしてやりたかった!』

『ねぇ。してやりたかったって……今、家族が幸福じゃないって、思い込んでるのはスルーだけかもよ』

 

 俺は俺のお腹の中で、ヴァイスに書いてもらったビィエル本を真剣に読みふけっては、にこにこと笑うインを思った。

 その隣では、真剣な姿で机に向かい、顔にインクをつけながら、この世界に新しいかっぷりんぐを誕生させるバイの姿も見える。

 

 二人共、夢中だ。

 そのどこに、親の事を思い出す余地など残っているだろうか。

 

『親のこころ、子知らず!だよ』

『は?』

 

 そうそう、親の気持ちなんて、子供はちっとも考えちゃいない。今だって、きっと新作ビィエル本に夢中になっているに違いないのだから。

 

『でも、だって……』

『みんな自分の幸福の為に生きてるんだ!今頃その子達は、きっと面白いビィエル本を読んだり描いたりして、そりゃあもうにこにこしてるさ!』

『ビィエル本?なんだ?それは』

『あぁっ!もう!今、その事はどうでもいいの!』

『でも、』

『うるさいっ!まったく!そろそろ、自分の幸福の為に傷付く勇気を持てよ!』

『っ!』

 

 そう、どこかで聞いたような、言われたような言葉を勢いよく言い放ってやる。これを言われても動けないようなら、もう逃げても俺が追いかけて幸福にしてやる!絶対に逃がしはしない!

だって、

 

『っくう!』

 

 なにせ、そろそろ腕が限界なのだ。

 

『おっもい……!』

 

 なにやら、さっきからヨルが物凄く重くなっている気がするのだが、もうこれは完全に気のせいなんかではない。でも、だからと言ってお父さんの俺が我が子を、落っことす訳にもいかないし。

 

 でも、このままじゃ、完全に腕が、

 

『アウト、もう抱えなくていい』

『……へ?』

 

 気付くと、俺の前には俺よりも背の高い、とてもスラリとした一人の男が立っていた。チラと振り返り様に俺を見る相手に、俺はとっさに男の脇に挟んでいた俺の腕を、慌てて抜き取った。

 

『ベス……いや、ヨル?』

『あぁ』

『……お、大きく、なったね』

 

 そんな間の抜けた、バカみたいな言葉が口を吐いて出る。

 俺の言葉に、彼は……ヨルは、本当に美しい笑みをその口元に浮かべた。あぁ、この笑い方。ウィズに似てる。それに、オブにも。さすが、二人のお父さんだ。

 

『……あぁ、アウトが、育ててくれたんだ』

『早すぎるよ。まだ、子供で居てくれて良かったのに』

『自分が、そんな事を言って貰える日が来るとは思わなかった』

『親はいつも心の中で、そんな事を思ってるもんだよ』

 

 惹き込まれる。この男を“ヨル”と名付けたスルーの気持ちが、俺にも痛い程よく分かった。この人は、確かに夜を背負っている。スルーの大好きな“ヨル”だ。

 

『……ありがとう。お父さん』

『ふふ。大きくなっても、俺はキミのお父さんだよ。ほら』

——いってらっしゃい。

 

 俺は一瞬にして俺の背を抜かしてしまった我が子の背中を押すと、ヨルは今度こそ自分の足でスルーの前に立った。

 スルーもスルーで、突然目の前に現れた、子供ではなくなったヨルに、オロオロとしている。

 

『な、なんだ?どうして急にヨルは大きくなった?あれ?ヨル、どうしてこっちに来る?ぶつかる、ぶつかるぞ。ぶつかったら、危ないぞ』

『スルー、ぶつかっていい。だから、頼む』

——-逃げないでくれ。

 

 そう、切なそうな声で必死に言われてしまえば、もうスルーも動けない。まるで、動けなくなる魔法でも使われてしまったかのように、「ぶつかる、ぶつかる」と口にしていたスルーが、途端に大人しくなった。

 

『……っ!!』

 

 そして、次の瞬間、ヨルの肩越しに見えていたスルーの目が、一際大きく見開かれた。まるで、雷にでも打たれたように。足りていなかった何かが、その身に戻って来たかのように。

 同時に、それまで何の色も宿していなかったスルーの瞳に、色が宿った。

 

どうやら、俺はそろそろ“スルー”を見る為にかけた色眼鏡を、外す時が来たらしい。

 

『……なん、で』

『なんで、とは?』

『おれ、やくそく、まもれなかった、のに』

 

——–もし、俺達が互いに……そうだな。家族を、守りきり、幸せに出来たら。

——–俺が、お前を迎えに行く。

 

 スルーの記憶の中に絶対的に横たわる、ヨルとの約束。それは、スルーの中では、最早、鉄格子の鳥かごのような約束の檻だった。自分を不幸へと閉じ込める、鉄壁の鳥かご。そして、その鳥籠の鍵を持つのは、

 

 この、ヨルだけだ。

 

『約束?何の事だか』

『え?』

『スルー、お前に渡した手紙を、お前は読まなかったのか?』

 

 カサリ。

 どこからか、何度も何度も苦しみの淵でスルーを呼び続けた、あの手紙の擦れる音がした。

 

『俺はな、スルー』

『あ、あぁ……』

 

 上空から一枚の紙切れが、スルーとヨルの間にユラリユラリと落ちて来た。落ちて来た紙に、スルーが導かれるように手を伸ばす。

 けれど、そのスルーの手が、落ちて来た手紙を掴む事はなかった。何故なら、スルーのその手は、ヨルのその美しくも力強い掌に、ガシリと掴まれてしまったからだ。

 

 

『お前に会いたいから、会いに来たんだ』

——–会いたい、スルー。

 

 

 その言葉と共に、ヨルは“彼”を閉じ込める約束の檻の扉を勢いよく開いた。開いて、必死に手を伸ばし、ずっとずっと会いたかった人の手を掴み取ったのだ。掴み取って、自身の腕の中へと閉じ込める。

 

『……ヨル?』

 

 そして、そんな力強くも温かい檻の中へと閉じ込められた彼は、何が起こったのか分からないとでも言うように、震える声でヨルの名を呼んだ。

 

『ヨル、なんだな?』

 

 カラン。

 俺はまた眼鏡を外した。そして、初めて“彼”と出会った時にかけていた、最初の色眼鏡を拾って掛け直す。

 

 そう。これは“スルー”を見る色眼鏡ではない。

 俺とウマの合う、大切で、大事な友達。“プラス”を見る為の、大事な色眼鏡だ。

 

『プラス、ずっと会いたかった。待たせて……本当にすまないっ』

『……あ、う。よ、ヨルだ。ヨルだっ!』

『あぁ、俺だ。やっと、会えた。やっと会いに来れた……やっと』

『ヨルだーーーっ!』

 

 声を震わし、体を揺らすヨルに対し、抱きしめられたプラスは、やっぱり情緒の欠片もない歓喜の絶叫を無遠慮に上げた。

 でも、それこそ俺のよく知るプラスだ。

 

 

—————俺の名はプラスだ!さぁ、アウト!週初めで非常に気分は最低だったけど、君に会えて急に元気が出てきた!一曲、俺と踊ってくれないか!?

 

 

 俺は、かけ慣れた色眼鏡との再会にホッとした。

 黄色の色眼鏡。

 最初に捨てたその色眼鏡こそ、やっぱり一番プラスには似合う気がした。

 

『ヨルヨルヨルヨルヨル!ヨール!』

『っぐふ、押すな押すな。倒れる……っうわ!』

『あはははっ!ヨルだーっ!』

 

 久しぶり、プラス。会いたかった。

 でも、やっぱり、お前“じょうちょ”って奴が足りないよ。なんだよ、ウケのお前が、愛する人との時を越えた感動の再会で、セメを押しに押して、押し倒すって。サソイウケかよ。

 

『あはははっ!ヨルだっ!ヨルが居る!あはははっ!』

『……まったく、お前という奴は』

『ヨルヨルヨルヨルヨル!』

『なんて……かわいいやつなんだ』

 

 俺は、目の前で繰り広げられる、狼と犬がじゃれ合うような二人の再会を前に、けれども何だか、それはとても、この二人らしいとも思うのだった。

 

『ふふっ』

 

 幸福を手にした人達の幸せな物語の新たな一頁に、俺は、自分とお父さんの物語も、新しい頁へと向かわせる事にした。

 

———ねぇ。お父さん。

———ん?どうした、アウト。

——–お父さん、俺も、お父さんより好きな人が出来たよ?嬉しい?安心した?

 

 そう、心の中のお父さんに、俺は尋ねた。

 すると、お父さんは笑って、でも少しだけ拗ねたような顔で答えてくれた。

 

——-少しだけ、寂しいな。

 

 あぁ、ベストのお陰で、また知らないお父さんに会えた。

 

『……おどうざん』

 

 そう、俺が自身の腕で乱暴に目をこすった時だった。

 

 

 

 

 俺のすぐ隣に、物凄い勢いで“何か”が落ちて来た。