356:忘れていても

 

 

『……イン』

 

 そして、オブはと言えば、突然、インから与えられたその温もりに、先程までの不機嫌そうな表情を一気に収めると、その視線をインからスルリと逸らした。少しだけ、普段はその白い耳が朱に色付く。珍しい。

 

 いつもは二人でもっと凄い事をしているのに、手を繋いで『好き』と口にされただけでこんな風になる。まったくその温度感に、僕は見ているだけで風邪を引いてしまいそうだよ。

 

『一番、好きな子?』

『そうだよ!俺の一番で、たった一人!この子だけだよ!』

『この、オブが?』

『そう!』

 

 なんて事なく、返される“たった一人”という言葉。

 “この子”だけという確信。

 

『こんなに好きなのに、なんでだろうね。俺も、オブの事はすっかり忘れてたんだ!』

 

 確かにそうだ。インも、まさに今のプラスのような状態だったのだ。オブの事は綺麗サッパリ、その顔すら忘れていた癖に、ただ自身の中に眠る暴風雨のような激しい感情だけは、深くその胸の奥に宿らせていた。

 

 なにせ、オブが目の前にやって来ても、最初は気付きもしなかったのだ。でも、思い出すのなんて、本当に些細なきっかけに過ぎなかった。

 

——-もしかして、オブ?

 

 そんな、些細で、何気ない問いかけと共に、インは自身が最も好きだった相手の事を思い出したのである。

 

『このオブはね、最初は俺との約束破りをして、全然俺にも会いに来てくれなかったんだよ!』

『……イン、だから。それは、ごめんって』

『それに、俺の事を叩いたんだ!』

『……本当に、ごめんなさい』

『一生言い続けるよ!』

『……一生』

『そう、一生!』

 

 インからの笑顔の温かい怨嗟が、オブにお祝いの花束のように手渡された。一生というその言葉は、オブにとっては呪いではなく、お祝いだ。一生言い続ける程、傍に居続けるという。

 

 そんな二人の様子を、プラスはただ、ジッと見ていた。

 おやおや、忘れたフリをする彼にも、どうやら同じような“一生”の約束があったようじゃないか。

 

 忘れているのに、そりゃあおかしな話だ。

 

『へへ。でも、会いに来て謝ってくれたから、約束破りでもいいかなって思った!』

『や、約束破りはダメだろ?許せないだろ?』

『ん-ん!いいんだー!だって、約束破りの事をずっと怒ってたら、今、楽しくないし!許してあげた!』

『そんなモノか』

『そんなもんだよ!だって、今楽しい方がいいもんね!』

『今が、楽しい方がいい……』

 

 インのあっけらかんとした言葉に、プラスは何かを考え込むように顎に手を添えた。ただ、仲良く手を繋ぐ二人の様子を、ただ、遠い、懐かしいナニかを見るような目で見つめる。

 

 全てを忘れた人間に“懐かしい”があるなんて、それもまたまたおかしな話だ。

 

『なら……今、キミは楽しくて、幸せだってことか?』

『うん!そうだよ!オブと一緒にお店をやったり、遊んだり、お話を読んだりして、毎日楽しいよ!幸せだよ!』

『……そうか。そうか』

 

 そうか!

 そう、プラスは自分がどうしてそんな感情になるのか分からないのだろう。笑って三回目の『そうか!』を口にした瞬間、ヒラリとその体を軽やかに舞わせた。片足で地面を蹴り、クルクルとインとオブの周囲を踊る。

 

『お祝いしよう!お祝い!お祝いのダンスだ!歌も歌うぞ!』

 

 言うや否や、目を瞬かせるインとオブの周りで、そりゃあもうデタラメな歌と踊りが僕たちの前で披露され始めた。

 

『へぇ、やっぱり上手いもんじゃないか』

 

 しかし、いくら即興のデタラメな歌やダンスとは言え、さすがは夜の旋律者と呼ばれたプラスだ。彼の唇から紡がれる旋律は耳に優しく馴染み、その踊りは見ているだけで幸せになれる。

 

 

——今日から此処は俺の舞台だ!お金はいらない!素晴らしいと思ったら、喝采をくれ!

 

 

 そう言って、プラスが登場して以来、あの夜の人気のない夜の公園は、彼の独壇場になった。

 しかも、本当に大勢の人数の愛好者が集まるようになったのだから、彼の実力はホンモノだ。前世の彼の周囲の人間達のような、“変わり者”という先入観も偏見も持たない、子供のような“通りすがり”達は、自身の感動に、ただただ正直に、彼の歌に聞き入った。

 

 地位や権力は上手に扱えなかった彼だが、やはり、聴衆の目や耳をさらう能力は、前世から今尚健在だったらしい。

 

 その声に、あの心も体もボロボロだった、小さな“彼”も惹き寄せられたのである。

 そう、彼は、約束の籠に囚われて尚、自身の歌で“幸福”そのものを呼び寄せたのだ。

 

——-しあわせって、まあるい。しあわせって、うでのなか。しあわせは、あたたかい。

 

 歌い続ける彼に、僕は『さてと、』と準備に取り掛かる事にした。どうやら、アウト達の方も、向こうの彼の尻尾を上手に撫でたらしい。

 どうして、僕にそんな事が分かるのか。

そんなの、先程まで何もなかった筈の暗闇の空間から、チラホラと、まずは星らしきモノが見え始めたからだ。

 

 その光はまだ微かだが、暗闇だったこの世界からすれば、それは大きな変化だ。

 

『へぇ、自分を受け入れる準備が出来たって事かな?』

 

 ならばあとは、月でも出そうか。月と星の明かりがあれば、きっと彼の“探し人”も見つかるだろう。

 

『ふうっ』

 

 僕は、腹の底からマナを生成すると、深呼吸と共に勢いよくマナの突風を吹かせた。その風は、狙いをすましたように、プラスの顔へとぶつかり、プラスの髪の毛をびゅうっと上空へと巻き上げる。

 あらら。どうやら、風を強く吹かせ過ぎたようだ。

 自身の方へと吹き付けてきた、その突然の強風に、プラスの歌が、驚愕の声と共に終わりを告げる。

 

『うわっ!なんだ、急にっ!』

 

 その瞬間、踊るプラスの胸ポケットから、ヒラリと一枚の紙が舞い上がる。

 

『おやおやぁ!あの紙は一体なんだろうね!』

 

 そう、僕が舞い上がった一枚の紙切れを指さしていると、それまで突然の強風に驚いて目を細めていたプラスの瞳が、その瞬間大きく見開かれた。

 そして、舞い上がる紙を凝視するプラスに、何故だかその紙は導かれるようにインの目の前へと落ちて行く。