357:お父さんへのお手紙

 

 

『なんだろ、コレ』

『っ!あ、あっ!それは!それはっ!』

『あれれ。何か、書いてある?』

 

 そう言って、足元に落ちた一枚の紙切れを、インが首を傾げながら拾い上げる。

 僕のマナの風は、マナの宿るモノに惹き寄せられるように出来ている。そして、そもそもマナというのは、人の“想い”の集結体だ。

 

 このスルーの深い深い奈落にまで続くかと思われるマナの器の中。

そのマナの根源が、あの、たった一枚の紙切れに詰まっている。

 

『それは、訳の分からい事が書いてあるだけの紙だ!』

『そうなの?』

『ああ!どこの国の言葉なのかは分からないが、俺には読めない!でも、大切なモノなんだ!だから、』

——返してくれ!

 

 そう、必死に叫ぼうとしたプラスに対し、落っこちてきた紙を拾い上げたインが『あれ?』と首を傾げた。

 そりゃあ、そうだろう。今、プラスはその紙に書いてある文字に対し“読めない”と言った。けれど、インにとってはそうではない。

 

『これ……俺、読めるよ?』

『は?』

『ねぇ、オブ。これって……』

『え、なんでコレをアンタが持ってんの?え、まさかアンタ』

 

 さすがは察しの良いオブだ。

 オブはインの手の中にある紙切れを覗き込んだ直後、驚いたような表情で呆けるプラスの顔を見つめた。

 

『よ、読めるのか?』

『うん。読める。だって、俺、文字はオブに習ったもん』

『いや、習ったって……そういう事じゃない!それは、俺の知っている世界の文字じゃ』

『でも、これお父さんの名前が書いてある。お父さんへの手紙を、どうしてあなたが持ってるの?』

 

インの大きな目が、プラスの眼鏡の奥にある、同じくらい大きな瞳を捕らえる。この二人には、血の繋がりなんてモノは無い筈なのに、おかしい事だ。この二人は、まるで“親子”のように、よく似ているじゃないか!

 

『お、とうさん?』

『うん。ここに書いてあるじゃん!』

 

——-会いたい、スルー。って!

 

 インがその手紙を読み上げた瞬間、それまで何も知らないなんて言っていたプラスの瞳に、明らかな色が宿った。それを見届けて、僕は最後にもう一風引き起こしておく事にした。

 

 もうすぐ月が見える。けれど、まだその姿は厚い雲の向こう側だ。そして、月にかかった雲を吹き払うには、やっぱり“風”が必要だよね。

 

『ふうっ』

 

 僕のマナの風が勢いよく舞う。吹き抜ける先は、もちろんマナの集まる場所。

 

『っあ!お父さんの手紙がっ!』

『ちょっ!イン!待って!』

『だって、お父さんの手紙がどっか行っちゃうよ!』

 

 インは僕の突風によって風に流されてしまった紙切れを追い、その足を必死に動かした。その後を、オブまでもが追う。

 さて、インは元野生児だ。ちんたらしていたら追いつかれてしまう。少しだけ、風の速度を速める事にしようじゃないか!

 

『あわわわー!このままじゃ、キミの大事な手紙がどこかに飛ばされちゃうんじゃない?』『あっ、あっ!ソレは、ダメだ!それに、あっちは……』

『崖、があるね?』

『っ!』

 

 風に乗る紙切れを追うインを、オブが追い、その後ろをプラスが走る。

 

『ふう。みんな、若いなぁ』

 

 僕は年寄りだからね。自分の足で走ったりなんて、そんなかったるい真似はしないよ。

 どうせ最後尾。誰も僕の事なんか、見ちゃいない。風に乗って空を飛んだとしても、誰も驚くような人間は、ここには居ないのさ。

 

『イン!ちょっと待って!そっちはさっきの崖だよ!危ないから!また落ちるから!』

『もう、その紙の事はいいっ!おいっ!お前っ!上じゃなくて前を見ろ!』

『でも、あの手紙!お父さんのだよ!届けなきゃ!お父さんに会いたい人が居るよって教えなくちゃ!』

『あれは、お前の……お父さんの手紙かっ!?』
『そうだよ!俺のお父さんに会いたいって書いてあるんだから!あれはお父さんの!』

『あれ書いたの誰か分かるから!とりあえず、止まって!止まれ!止まれって言ってんだろ!?』

 

 インには優しいオブの、珍しい怒声が響き渡る。同時にオブの後ろを走っていたプラスが、オブの隣へと並んだ。どうやら、プラスもプラスで前を走るインに対し、心底焦っている様子だ。

 まぁ、それもそうだろう。月にかかっていた雲が晴れてきたせいで、インの僅か先の奈落が、如実に映し出されてきたのだから。

 

—–インっ!止まれっ!

 

 そう叫んだのは、オブか。プラスか。

 それとも、

 

 二人だったのか。

 

『あと少しっ!!』

 

 インはその軽い身を、勢いよく跳躍させると、“お父さんへの手紙”を掴み取らんと手を伸ばした。

 

『インッ!』

 

 オブの、インの名を呼ぶ声が半分悲鳴のようになる。そりゃあそうだろう。インの飛び上がった先には、もう地面は存在していなかったのだ。

 

『あれ?』

 

 インの呆けた声が、小さく揺れた。

 そして、月に照らされ、ハッキリと僕たちの目にも映し出された、深い深い崖底へと吸い込まれていく。この瞬間になって、やっと、インは自分の体が奈落の底へと吸い込まれようとしている事に気付いたようだ。

 

『うああああっ!?』

『おおおおおいっ!?』

 

 オブとプラスの二人の焦りを帯びた絶叫が、マナ中に響き渡る。響き渡ると同時に、プラスの体はピタリと止まり、しかし、オブはと言えば叫ぶ間も、その足を止めたりはしなかった。

 

『インっ!』

『オブ!』

 

 オブは何の躊躇いもなく、足場のないその崖の淵から飛んだ。飛んで、落っこちるインに手を伸ばす。

 それを見たプラスから、ヒュッと息を呑む音が漏れ出る。それと同時に、月が少しだけ雲の合間から顔を出した。

 

『だからっ!見捨てろと言っただろうが!!オブ!』

 

 プラスは作り上げた拳と共に、次の瞬間にはもう落下して見えなくなるであろうオブに向かって怒鳴り声を上げた。

 そんな彼に対し、オブは落ちるインの手を掴み、その身を自身の体に抱き込むと、鬼の形相で言い返した。

 

『だからっ!俺もあの時言っただろうが!インだけ死なせるくらいなら、おれは……俺は一緒にインと崖底に落ちてやるってな!?スルー!』

『っ!』

 

 スルー!

 そう言って崖から見えなくなったインとオブに、足を止めていたスルーは勢いよく地面を蹴った。本当は、あの二人なんかよりも、ずっとずっと足の速い彼。

 

スルーはやっと、

 

『息子を見捨てる父親があるかぁぁぁっ!』

 

 息子へと、躊躇いなく手を伸ばした。