362(最終話):お父さんを抱っこ

 

 

『こんにちは、ベスト!俺はインだよ?よろしくね!』

『……』

『……君たちは』

 

 突然現れたインに、ベストの瞳がゆっくりと見開かれた。見開かれ、そして大きく揺れる。

 

 ゆらゆら、ゆらゆら。

 驚愕、懐古、自責、親愛。

 

 その目には、本当に様々な感情が宿っていた。

 けれど、その瞳を揺るがすのは、どうやらインではなさそうだ。ベストの揺れる瞳が映す先。そこには、インの隣に立つ、オブの姿がある。

 

『可愛いねぇ。十歳って聞いたけど、もっと小さく見えるね』

『……』

『ねぇ、マスター。俺にもベストを抱っこさせて。とっても可愛いよ!この子!』

 

 そう言って前へ一歩出て来たのはインだったが、やはりベストと視線を交わらせるのはインではなくオブだ。

 対するオブも、ベストから視線を逸らす事はない。あぁ、どうやらオブは完全に、このベストが自身の前世の父親である事を理解しているようだ。

 

『イン。ごめんね。ちょっと、俺の方から先にこの子と話させてもらっていいかな?』

『オブ?』

 

 オブはジッと自分の事を驚いたような表情で見つめてくるベストに、スルリとインの前へと立った。

 

『珍しいね。オブが小さい子を気にするなんて』

『まぁ、ね』

 

 オブは俺の腕の中に居るベストに向かって顔を上げると、そのまま静かに両手を広げてみせた。そう、それは完全にベストを抱き締める体勢だ。

 

そんなオブに、ベストの口元が何度か震える呼吸を漏らす。

 

『オブ、俺は……』

『もう会えないと思っていました。父さん』

『俺も、だ』

 

 ぎこちない元親子の会話が交わされる。俺は、その間に抱えていたベストの体を、オブへと差し出した。

 

『軽い、ですね』

『あぁ、アウト達に拾われるまでは……浮浪児だったからな』

『……浮浪児』

 

 オブによって抱えられたベスト。

 かつての“親子”。

 

 その姿に、俺は以前ウィズに言われていた言葉を思い出していた。

 

——-アウト。俺は、もうオブであってオブではなくなった。今の俺は、もう完全に“ウィズ”だ。

 

 そう、ウィズはオブを俺の中へと切り離してから、前世の記憶に対し自己同一性を持てなくなったと言っていた。オブとしての記憶は、自身の体験した記憶から、聞き知って知っているだけの物語のようなモノになったらしい。

 

 だから、ベストの事を心の底から“父親”という認識で居るマナの核は、今、此処にいるオブだけだ。

 

『オブ、俺は……ずっとお前に謝りたかった』

『何を、ですか』

 

 尋ねながら、オブはベストの背にその手を回す。自分よりも、とてつもなく小さくなってしまった父親。もしかしたら、オブも抱きしめてもらった過去があったかもしれない。けれど、今ではその逆。

 

 オブが父親を抱き締める番だった。

 

『あの時、俺が父親ぶって、お前を間に合わないと分かっていながらも、あの場所に向かわせた。自由に生きろなどと、本当に上っ面だけの言葉を並べ立てて……良い気なもんさ。自分に出来ないからと、息子に全てを背負わせたんだ』

『……父さん』

 

 自嘲気味に口にされるベストの言葉に、オブは小さく息をついた。

 

『あの時、貴方が俺に自由に生きろと言って、背中を押してくれた。それを、貴方が後悔しているのであれば、俺は今ここでそれを訂正しないといけません』

『……オブ?』

 

 ベストの背に回されていたオブの腕が緩む。そして二人は互いに真正面から向かい合った。

 

『あの時、貴方が俺の背を押してあの場所に行かせてくれなければ、俺は本当に……二度と、インには会えなかった』

 

 オブの口から漏れ出た“イン”という名に、ベストはチラとオブの隣で、目を瞬かせるインへと視線を向けた。

 

『……どういう、事だ』

『インが死ぬ間際に、俺の贈った懐中時計をスルーさんに託した。そして、その託された懐中時計を、俺は貴方が背中を押してくれた事で、受け取る事が出来たんです』

 

 オブの言葉に、俺の隣に立っていたプラスが、何かを思い返すようにヒタとその目を伏せた。あの、プラスが最も自分の心を“野生”という言葉を使い、偽ったあの日、あの瞬間。

 プラスはあの日の事を、どう、思い出しているのだろうか。

 

『あの懐中時計は全ての鍵でした。俺がインに出会う為の鍵であり、心に触れる為の鍵。あれが無ければ、俺は今も不幸の中に居た。俺は、貴方のお陰で幸福になれたんです。だから、父さん』

 

———今度は、貴方が自由に生きてください。

 

 オブはその言葉と共に、再びベストを強く抱きしめた。それは、きっと昔オブが父親にしてもらったようにしているのだろう。

 そんなオブの強い抱擁に、ベストは唇をギュッと噛み締めた。

 

『……っそう、か』

 

 抱きしめられたまま、ベストはその瞳からポロポロと大粒の涙を零していった。その涙は、抱きしめているオブのシャツをしとしとと濡らす。

オブはと言えば、ベストの泣き顔を見ないでいてやるためだろう。ベストの背をゆっくり撫でながら、ポカンとした表情で二人の姿を見つめるインに向かって、密かに人差し指を自身の口元へと掲げた。

 

まるで、しばらくこうさせてくれ、とでも言うように。

 

『……イン、ベストの抱っこはまた今度ね。今度は、俺のマナの中に連れて来てあげるから』

『うん』

 

 俺の言葉に、インは『仕方ないなぁ』とでも言うように、その肩をすくめてみせる。あんなにベストに会いたがっていたのに、まったく妙に聞き分けが良いじゃないか。

このインが、どこまで理解して、どこまで分かっていないのか。俺にはわからない。

 ただ――。

 

『良かったね。会いたい人に会えたみたいで』

『あぁ、助かったよ。ありがとうな、イン』

『いいよ。男同士でしょ』

『あぁ、そうだな。男同士だもんな』

 

 そう言って長年の友達同士のように肩を並べて笑い合うプラスとインの姿に、俺は最後の最後で、我慢してきた想いが激流のように吹き出してくるのを止められなかった。

 

『ずるい、なぁ』

 

 長い長いすれ違いの中、せっかく会えた二組の親子を前に、そんな事を思ってしまう自分が本当に情けなくて、俺は四人から背を向けた。俺はベストのお父さんだ。だから、こんなみっともない姿は見せられない。

 

『アウト?』

 

 そんな俺にヴァイスがソッと声をかけてくる。その声は、さすがの“ぎょうかん”を読めない俺にだって分かるくらい、俺の事を心配してくれているようだった。

 

『ヴァイス……ごめん。俺は先に帰るから、あとは皆をよろしく』

『……我慢しなくていいのに』

『我慢くらいさせてよ。俺、お父さんなんだから』

 

 そんな優しい事を言われたら、泣いてしまうではないか。

 泣いて喚いても、羨ましがっても、妬んでも、俺はもうお父さんには会えないのだから。

 

『じゃあ、また』

あとでね。

 

 そう、俺がヴァイスの顔も見ずに口にした時だった。

 

 

『アウト』

 

 

 俺の名を呼ぶ声がした。

 俺は、その懐かしい声に伏せていた目を勢いよく上げた。懐かしくて、優しくて、俺を一番に可愛がってくれる、この人の声は――。

 

『……うぃず』

『あんまり遅いから、迎えに来た。まったく、心配ばかりかけさせるな』

 

 そう言って、当たり前のような顔をして俺を迎えに来てくれる人。俺の幸福の隣に、自分の幸福をそっと置いてくれた人。それは、今や“お父さん”ではなく“ウィズ”なのだ。

 

『うぃず!』

 

 俺は少し離れた場所に立つウィズの元へ駆けだすと、そのまま勢いよくウィズの体に抱き着いた。

 そんな俺に、ウィズは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、俺の後ろにある四人の光景を前に何かを察したのだろう。抱き着いた俺の背に、何も言わずに手を回してくれた。

 

『ぅぅぅぅっ!なんでぇ、ぎだのざぁっ!』

『……お前が俺の名を何度も呼ぶからだろう。恋人に呼ばれたら、それがどこだとしても、俺はお前を迎えに行くと決めている』

『ふぇぇぇっ、ぇぇぇっ』

 

 もうダメだ。声も涙も止まらない。

 俺は“お父さん”なのに、もう、こんなの変だ。ベストに合わせる顔がない。“お父さん”は強くなきゃいけないのに。泣いたら、いけないのに。

 

『なぁ、アウト。本当はあまり俺の本意ではないのだが、“父親”がお前の我慢の壁を破る術になるのであれば、俺はもう、父親でもなんでもいい。俺はお前の望む、俺になろう』

 

 ウィズの優しい手が、月のように淡い優しい色味の声色が、俺を温かさの中へと包みこんでいく。俺はもう良い年なのに、皆がお父さんに会えて嬉しそうな姿を見て、嫉妬してしまった。自分はもう会えないのにズルイって、凄く身勝手な事を思った。

 

 ウィズはそれを分かってくれた上で、俺の望む者になると言ってくれたのだ。嫌な俺も、全部受け入れて。

 

『うぃずはぁっ、うぃずがいいよぉっ』

『……俺は、お前を慰めに来たつもりだったのだがな。おかしなものだ。結局のところ、こうして俺が元気づけられる』

『っひく、ひっうぅ』

『……よしよし。まったく、アウト。お前はどうしてこんなに可愛いんだろうな。可愛い可愛い、俺のアウト』

 

 ウィズはウィズが良い。

 お父さんじゃなくって良いのに、何故だろう。

 俺を可愛いといって頭を撫でてくれるその手は、まるで本当に、

 

 

——あぁ、よしよし。可愛い可愛いお父さんのアウト。

 

 

 お父さんみたいだった。