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明日からベストが入寮するという前日の夜。
俺とプラスとベストは、三人並んで仲良く横になっていた。
今日は特別な日なので、けもる達は誰も居ない俺の部屋で寝てもらっている。だから、正真正銘、今は本当に、三人だ。
「ねぇ、俺まで一緒に寝て良かったの?二人きりが良かったんじゃない?」
「何を言う。明日から息子が家を出るんだ。寂しいのはアウトも同じだろう」
「そうだけど……ねぇ、ベスト。いいんだよ。俺、明日もちゃんと教会までお見送りするから」
そう、俺が真ん中で横になるベストに問いかけると、ベストは薄く灯りをともした部屋で、チラとだけ俺を見て言った。
「いい。何故、お父さんがそんな気を遣う事がある」
「でも……」
「その気遣いは、俺が成人してからでいい」
「……そっか」
俺はベストの穏やかな口調に、やっとサワサワしていた心が落ち着くのを感じると、その小さな頭をよしよしと撫でてやった。こうして寝る前に頭を撫でて上げられるのも、一旦今日までなのだ。
そう思うと、なんだか急に寂しさが込み上げてくる。
すると、そんな俺とベストの姿に何を思ったのか、先程まで平気そうな顔をしていたプラスが、突然、体にかけていた布団をガバリと頭からかぶった。
「プラス?どうしたんだ?」
「ベストは……明日からもう、一緒には眠れないんだな」
「……プラス」
その言葉に、どうやらプラスも俺と同じ事を考えていたのだという事を悟る。寂しいよな。プラスは、特に。
「ずっと寂しかったが、今、急にたくさん寂しくなってしまった。どうしよう、こんなに寂しくなるなんて思いもしなかった。どうしよう、どうしよう」
「どうしよう」と、まるで子供のように布団の中で繰り返すプラスに、ベストは寝ていた体をスクリと起こした。そして、まるくなった布団に向かって、その小さな手を添える。
「プラス。寂しがる必要はない。毎週帰宅申請をして、俺はお前の元に帰って来よう」
「……そんな事を言って、帰って来ないかも」
「一度、約束を違えた男は、もう信用出来ないか?」
少しだけしゅんとしたベストの声が、静かな部屋に流れるように沈みこんだ。そんなベストの声色に、それまで布団で顔を隠していたプラスが、おずおずと布団の隙間から顔を覗かせる。
「……ベスト。ちがうんだ。そう言う意味で言ったんじゃない」
「信用できないのも無理はない。俺は、それだけの事を、お前にしたのだから」
「違うんだ、違う違う!」
今度は、一気にかぶっていた布団を放り投げて、プラスは一気にその身を布団から起こした。
「俺はな、ベスト。お前には、これからたくさんの出会いと、キラキラの未来があるから、学窓で楽しい事があったら、此処に帰るのを面倒に思う日が……来るんだろうなって」
自分で言いながら、どんどん落ち込み始めたプラス。そんなプラスに、ベストはソッと自身の体を寄せる。ついでに肩を抱いてやろうと手を伸ばしている様子だったが、どうしても今のベストでは腕の長さが足りないようで、背中をさするにとどまった。
「どうしてそんな風に思う」
「だって……インも最初はお父さんお父さんって言っていたのに、いつの間にかオブが一番になった。そうやって、人は成長して、広がった世界の先に見つけた出会いに魅了されるものだ。だから……」
「プラス」
モゴモゴと不安を吐露するプラスに、ベストはそのままその不安を食べるように、プラスの口を自身の口で塞いだ。その姿に、俺はふとんを被って見ないフリをした。
見てしまったら、俺は“お父さん”として、二人を止めなきゃいけなくなる。でも、止めたくはない
今、こうして身を寄せ合う二人の時間は、この二人にとって、とても重要なモノだと思うから。
「……プラス。俺はな、インとは違う」
「違わない。だって……」
「なにせ、俺はお前を親だとは思っていないからだ。お前は俺の広がった世界で出会った、俺の可愛い光そのものだ。インにとってのオブが、俺にとってはお前なのさ」
「……本当か?」
布団をかぶった暗闇の向こうで、またしても二人の言葉が止まる。きっと、ベストがプラスに口付けをしてやったのだろう。
あぁ、静かな夜だ。
「どちらかと言えば、俺はお前を一人にしておく方が不安だ。お前こそ、幼い俺の成長を待つ事に飽きて、別の大きなモノに攫われてしまうかもしれない」
「別の大きなものってなんだ?」
「……その、お前にも……居たじゃないか。昔の俺に似た相手が」
ベストの苛立たし気な声に、俺はプラスのマナの中での事を思い出した。確かにいた。プラスは寂しさと苦しさから、ヨルと似た男の元へと、毎晩毎晩通い続けたのだ。
「あぁ、アイツ……マヨナカの事か」
「マヨナカ……その名付けのセンス。どうせ、お前が付けたのだろう」
「あぁ、そうだ」
「……まったく、名前すら気に食わんな」
本当に気に食わなさそうだ。声だけで分かる。
俺は、プラスの記憶の中で、その“マヨナカ”と呼ばれた男を目にした時の、ベストのはじけ飛んだ癇癪玉のような怒りを思い出し、静かに苦笑した。
「なぁ、ベスト。何をそんなに不機嫌になる?俺には、もうお前が居るから、他なんてどうでもいいのに」
「……本当だろうな。寂しいからと言って、体だけならいいだろうという不誠実な理屈を、今の俺は許してやれそうにないぞ。……本当に、余裕がないんだ」
「俺の一生はベストのモノなんだ。だから、ベストの一生も、俺のモノにしたい。でも未来の事は誰にも分からない。特に、ベストはまだ若いからな……不安でたまらない」
「そんなの俺も同じだ」
「でも、でも」
ベストとプラスの唸るような声が、静かな夜の部屋に沈む。
いくら心が通じ合っても、むしろそこからが、二人にとってのスタートラインだという事を、俺はよく知っている。
だから、俺は経験者として、一つだけ助言をする事にした。
「そんなに不安なら、毎日お手紙をやりとりすればいいんじゃないか?」
ともかく、不安を消すのは不可能でも、互いを知り続ける事は必要なのだ。
分からない事から、不安が生まれるし、勝手に相手の気持ちを想像して分かった気で居るから、すれ違う。それを防ぐには、もう、一つ一つの言葉を大事に、言葉を積み重ねていくしかないのだ。
「手紙?」
「そう、お手紙。二人共、昔離れてた時してただろ?あんな風に」
「……手紙を、誰が届ける」
「そんなの決まってるよ。ウィズさ」
俺は頭からかぶっていた布団を取り払うと、うつぶせになって枕へと肘をついた。
「ウィズは仕事で毎日教会へ出勤するだろ?そしたら、ウィズがベストにお手紙を渡したらいい。毎日なのか、なんなのかは知らないけどさ。だって、ヨルからの手紙を待っていた時のスルーは、物凄く楽しそうだったし。不安より、楽しみ!になるんじゃないのか?」
「……」
俺の言葉に、プラスが過去のある瞬間を思い出すように胸に手を当てた。そして、薄暗い部屋にも関わらず、その目がじょじょにキラキラと星のように輝くのが分かった。
「うん……!あれは、素晴らしい時間だった!オブが首都に帰るのが待ち遠しくて待ち遠しくて!何回もオブに『帰らないのか?』って聞いて、俺は何度もオブとインを怒らせたんだ!」
「……まったく」
先程の不安な表情など、とうに過去のモノだと言わんばかりに笑い始めたプラスに、ベストは苦笑する。苦笑しながら、ベストはすっきりとした顔で、プラスへと向き直った。
「可愛いお前が笑顔になるのであれば、俺は、毎日手紙を書こう。あの時もオブは了承してくれたんだ。きっとウィズも、手紙を届けてくれるだろうさ」
「っわーーい!手紙だ!手紙!今度は俺も文字が書けるから、ちゃんとお手紙が書けるぞ!楽しみだな?楽しみだな!」
プラスはベストの体を抱き上げると、勢いよくその体を抱き締めた。
「お前からの手紙を、俺も毎日楽しみに待つとしよう。可愛い可愛い、俺のプラス」
「ふふふ!可愛い可愛い俺のベスト!明日は大きい箱を買いに行こう!ベストが成人するまでのお手紙を、全部そこに仕舞う大きな箱を!」
「そうだな」
未来への約束は、どうして人をこうも不安にも幸福にもするのだろう。
まだまだ、体の小さなベストが、きっとそのうちウィズのように立派になる日も、そう遠くはない。プラスを抱擁し、幸福にして、その先の未来へとベストがプラスと共にある事を、俺は願うばかりだ。
「ベスト?ゆっくり大きくなって成人して、箱がいっぱいになるくらいお手紙のやりとりをしたら、」
「ん?」
妻と息子の幸せを願いながら、俺はその瞬間、プラスの醸し出す雰囲気がしっとりと変わるのを感じた。
「二人で、たくさん種を蒔こうな?」
「……っ」
プラスのその言葉に、俺は枕に肘を突きながら大きく溜息を吐いた。息子とのお別れ前夜に、まったくもって“じょうちょ”がない。
そして、プラスの腕の中でフルフルと肩を震わせ始めたベストが、チラと俺の目を見てきた。俺はベストの“ぎょうかん”だけは異様に読めてしまう。
だから、その目の意味するところだけはハッキリ分かった。
分かったけれど、聞いてはやれそうにない。
「ベスト、大きくなったらね」
「……でも、今夜は一旦別れの夜で、その」
「二度は言わない」
「……」
ピシャリと言ってのけた俺の言葉に、ベストは、まるで狼が唸り声をあげるような声で喉を鳴らした。それが、ベストにとっての必死の「うん」である事は、俺でなくとも分かっただろう。
「これから、全部、全部、ぜーんぶ!楽しみだなぁっ!」
「……」
プラスを抱きかかえ、未来を想いはしゃぎまわるプラス以外は。
「ベスト。このプラスは俺に任せておいてよ。変な奴が来たら、絶対に俺がシッシッて、しておくから」
「……頼む。本当に、頼んだぞ」
「了解。お父さんは、家族を守るよ」
俺は眉を顰め、拳を握り必死に紳士的な態度を崩さぬベストに、俺もずっとずっと息子としてみたかった約束をしてみる事にした。
「なぁ、ベスト。男同士、俺とも一つ未来の約束をしないか?」
「……なんだ?」
ゴロンと布団に寝転がると、此方を不思議そうな顔で見てくる二人の家族に向かって、俺は笑って言った。
「ベストが成人したら、一緒に酒を呑もう」
きっと、今までで一番美味しい酒になる筈だ。
俺は珍しく、プラスの腕の中で噴き出すベストに微笑むと、そのまま静かに目を閉じた。
その日、俺は夢を見た。
それは、お父さんの夢ではなく、大きくなった息子と、楽しく酒を飲み交わす、最高に格好良くて素敵な夢だった。
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次の日、ビヨンド教。皇国国教会パスト本会の神官学窓に、一人の少年が入教した。
彼は、入教した当日から、その政治的手腕を遺憾なく発揮し、十三歳の頃には、上級生を押しのけ、学窓の総代を務めるまでになった。
それは、歴代でも最年少総代表の記録である。
彼は、生徒達から裏で“冷血漢”と呼ばれ、それはもう大層恐れられていた。なにせ、彼に逆らう者に、彼はともかく容赦がなかったのだ。それは、生徒だけではなく教師もそうであったのだから、その容赦のなさは本物だった。
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そう、普段は冷静沈着で、その表情一つ揺るがす事はない彼だったが、彼の行く道を阻む相手には、それはもう烈火の如く激怒した。
「畜生」
その言葉を彼が口にする時、彼の周囲に付き従う、自身を彼の“手駒”であると名乗る生徒達は皆、その身を震え上がらせた。
その言葉を口にした後、それを彼から言わせしめた相手が、無事で居た試しは一度としてなかったからだ。
こうして彼は、ゆっくり、しかし着実に、自身の教会での地位を高め、そして固めていった。
どうして彼はそこまで上を目指すのか。
どうやら、彼には何にも代えられない強固な目的意識があるようだった。しかし、それを知る者は、一番古い手駒だと称する少年すら、知らない事だ。
ただ、彼は折に触れて口にする。
この世界を、ただ、ある人の為に心地よくしたいのだ、と。
その為だけに、自分はこの世に存在するのだ、と。
その為に生きる事の出来る今が、どれほど幸福なのかを噛み締めるように、彼は今日も筆を走らせる。
——–プラス。明日、帰る。早く、会いたい。
少年は手紙を書きながら、箱の中を埋め尽くさん勢いで仕舞い込まれた手紙の山を見て、小さく微笑む。
月明かりの元、明日の朝には「早く会いたい」と書かれた手紙を持ち、少年はこの部屋を出るのだ。
「あぁ、今日は満月か。良い、夜だ」
少年は、夜が好きだった。全ての始まりが、彼にとっては“ヨル”だったからだ。けれど、こんな夜には必ず思う。
「早く、朝になれ」
彼は、今。
太陽の元でも、心の底から自由だった。
冷血漢のベスト。
そう呼ばれる彼が、愛する人との約束を果たすため、その呼び名に似つかわしくない程の温かい心を携え、寮を後にするのは、もう数刻後の事である。
【前世のない俺の、一度きりの人生】最終章 了
次頁【性懲りもない後書き】