17:美味しいお話会

 

 

「……さてと」

 

 理不尽な不等価交換の先輩も、それより更に理不尽の上を行くクールツン高慢なポニーテールのメイドも居なくなった。

後に残されたのは、シンと静まり返る廊下と、目の前に荘厳に佇むイーサの部屋の扉だけ。

 

「おーい、イーサ。俺だー」

 

コン。

早っ!

 

 呼んだ瞬間、足音もなく目の前の扉が一度だけ音を鳴らした。

どうやら、今日は既に扉の前に待ってくれていたらしい。それか、先程までのやり取りがうるさくて、扉に寄っていたか。

 

「もしかして、うるさかったか?」

 

コン。

一度のノックは肯定。

 

「俺の声は、そんなにうるさいかぁ。さっきのメイドさんにも言われたけど。……なぁ、イーサ。俺、もう少し声、落として喋るべき?」

 

 今回、俺はイーサに頼みたい事がある。結構、本気で。真面目に。

 いつものように扉を背に腰を下ろしながら、俺は胸ポケットから、掲示板を書き写した謎の文字の並ぶ頁をめくってみた。

 

 うん、何度見てもサッパリわからん。

 

でも、だからと言って最初からその話題を持ち出すのも気が引ける。そんな事をしたら、今日、ここに来たのはイーサと話す為じゃなく、頼み事をする為みたいじゃないか。

出来れば、自然な流れで頼みたい。なにせ、俺にはもうこの癇癪持ちの王子様しか、頼れる相手は居ないのだから。

断られたら、もう誰を頼る術もない。

 

コンコン。

 

「ふふっ、そっか。じゃあ、このままでいっか」

 

 しばらくの後、控えめに叩かれた否定を示す二度のノックの音に、俺は記録用紙を意味なくパラパラとめくった。確かに、扉越しの会話なら、ボソボソと喋っていても聞こえないかもしれない。

 

 王子様が言うんだ。これ以上ないお墨付きだ。

 

「あっ、イーサ。お前、ちゃんと飯食えよ?残ってたら、また俺が怒られんだからな」

 

コンコン。

 

 何故、ここで二度叩く。

食えよ!今は何もしてねぇだろうが!

 

「食えよ!じゃないと大きくなれねぇぞ」

 

コンコン。

だから、何の否定だ。

 

「なんだよ、嫌いなモノでも入ってんのか?」

 

コンコン。

違うか。まぁ、子供だし好き嫌いの一つあってもおかしくはないが、王子様だし、その辺は配慮されてんのかもしれない。

 

「じゃあ食え。もったいねぇだろうが。ここの飯、めちゃくちゃ美味しいのに」

 

コンコン。

こんにゃろ、コイツ。地味に意地になってんな。

 

「お前の飯が一体何が入ってんのか知らないけどさぁ。さっき俺も昼飯食ってきたけど、うまかったなぁ……っはぁぁっ、思い出しただけでも涎が出てくる」

 

 ノックはない。

どうやら、聞く体制に入っているらしい。

 そんな事も、こんな扉越しにも関わらず、分かってしまうようになっていた。

 

「コクと深みのあるスープの中に、口の中に入れただけで崩れ落ちそうになるホロホロの肉。野菜は大きめに切ってあってさ、でもスゲェ柔らかいの。スルって歯が通ってさぁ。スープの味がしっかりついてて、でも、一番良いのはさぁっ」

 

 俺は先程まで目にしていたビーフシチュー的な、あの美味し過ぎる昼飯を思い浮かべながら、うっとりと語った。

 今の俺は周囲の鼻を明かす、食レポリポーターではない。だから、声に色気を込めて派手に語る必要もないだろう。

 

 俺は思ったまま、感じたままを口にする。

 

「パン、なんだよなぁ」

 

 本当に、此処は飯に関しては有難さしかない。

 向こうじゃ、とにもかくにも金が無い上に、自炊もしないモンだから、割引になった昨日の残りの弁当か、カップラーメンの毎日。

 

「表面は固いパンを、二つに千切るだろ?でさぁ、それをスープに付けるんだわぁっ」

 

 居酒屋バイトをしていると、焼き立て、揚げたて、出来立ての美味しい居酒屋飯を、とにもかくにも器械のように客の元へと運ぶ。運ぶだけで、もちろん食べられる訳じゃない。

 そりゃあたまに、廃棄する料理を貰う事もあったが、それは冷めて固くなったヤツだ。

 

「ここのパン、俺好きなんだよ。全部がフワフワじゃなくて、外は固いんだ。俺、そっちの方が好きでさ。でも真ん中はふかふか。焼きたてでもないのに、少しだけ、小麦粉の良い匂いがする」

 

 記録用紙は床に置いた。

 目を閉じて両手の指を合わせ、食事と共に懐かしい記憶を呼び起こす。

 

「友達と、たまに店で食べたパンと似てるんだ」

 

 そう。たまに、ほんとにたまに、金弥と一緒に近くの洋食屋に行く約束をしていた。互いに、一つずつ好きなモノを頼んで、半分ずつにして分け合う。

もちろん、パンも半分だ。

 

「そのパンをスープに付けて食べる。そうすると、スープが全部綺麗に食べれるんだ。少しだって残したくない。だって、たまにしか食べれないんだから」

 

 そう、金弥は、いつも違うメニューを頼んでいた。アイツはいつも挑戦者だ。

でも、俺が頼むのはいつもビーフシチュー。こんな所でも、俺は冒険できない。好きなモノを、ずーっと大事に大事に好きでい続ける。

 

離れられない。

 

「美味しかったなぁ」

 

 金弥の冒険する新しいメニューのおこぼれに預かりながら、俺はずっと同じ場所に立っていた。

 これじゃあ、金弥が居なくなれば、俺は何も新しいモノを得られない。そういう、事だったんだ。

 

「イーサ?お前の今日のごはんは、美味しいか?」

 

 扉越しに尋ねてみる。俺は、目を開けた。

 そこには、シンとした廊下と無機質な乳白色の壁があるのみ。

 

コン。

 

 一度のノックは、もう言わなくても分かるだろう。

 

「じゃあ、残さず食べろ。早く大きくなれよ」

 

 そう、いつもより大分抑えめの声で口にすると、扉の向こうから微かに食器の擦れる音が聞こえた。

 あぁ、この音。まるで金弥とあの洋食屋に居るみたいだ。