40:感謝の受け取り方

 

 

「そこに居るのは……ポチか?」

「っへ?」

 

 ポチ。

 昨日の今日で、既に懐かしさすら覚えてしまうその呼び名に、俺は弾かれたように声のする方へと目をやった。

 

「おう、やっぱりお前か。ポチ」

 

 すると、通りの向こうから、ガシリとした体躯に、無駄のない筋肉を纏わせた若い男が、ズンズンと此方に向かって歩いて来るのが見えた。その体躯のせいか、周囲のエルフ達の中でも一際目立つ。

 放たれる声は、その見た目同様、“精悍”の一言に尽きる。良い声だ。

 

「……シバさん」

「ポチ。今日も来てたのか。また仕事でも探してんのか?」

「いや、今日はちょっと違くて……シバさんは、買い出しですか」

「まぁな」

 

 店で使うのだろう。

 シバの両腕には、これでもかという程の荷物が抱え込まれていた。しかし、さすがだ。大量の荷物を抱えてはいるものの、その腕や顔に疲労の色は欠片も見受けられない。

 

「ポチ。暇なら店に来い。親父がうるせぇんだよ。今朝も朝からずっと『アイツをウチで雇うぞ!』ってシツケーの何のって。働き口がねぇなら、ウチに来てくんねーかだとよ」

「はは。確か昨日もそう言ってましたね。でも、人間の俺なんか雇ったら、毎日“アレ”を被る羽目になりますよ?」

「っは。そりゃあ、勘弁だな」

「俺もですよ」

 

 そんな軽口を叩きつつ、俺もシバも互いに顔を見合わせて苦笑するしかなかった。昨日のあの息苦しさに塗れた過酷な労働スタイルは、出来れば二度と経験したくない。あれを被って尚、ガハハと本気で笑っていられたのは、提案した親父だけだった。

 

「……まぁ、親父の気持ちも分からんでもない。お前ぇの働きぶりは大したモンだったからな」

「そりゃあ、どうも」

 

 これでも伊達に七年間も居酒屋でバイトしてきたわけではない。俺は、仕事終わりに受けた親父からの手放しの賞賛を思い出し、思わず後ろ髪を掻いた。

 

——–ポチ!ウチの店に来い!人間だろうが何だろうが、働きモンは大歓迎だ!

 

 イーサの部屋守の仕事じゃ絶対に与えられない、働きに見合った正当な評価。それに対し、俺は一瞬だが本気で、あの酒場で働く事に心が揺らいでしまった。まぁ、丁重にお断りさせて頂いたが。

 

「ハイハイっつって、文句一つ言わねぇで素直に返事して、何でも先回りして動き回るテメェが本気で気に入っちまったんだろうさ」

「仕事ですし。それが普通じゃないですかね」

「バカ言え。それが普通なら、ウチは従業員が当日に居なくなったりしねぇっての。ったく、昨日ので何人目だと思ってんだ。親父のヤツ……少しは考えろっての」

 

 荷物を抱えたシバが、そりゃあもう深い溜息を吐く。もちろん、荷物が重いから、なんて理由ではない。

 確かに、あの昔気質な親父の事だ。現場で動けないヤツには、容赦なく凄まじい怒声を飛ばしてきたのだろう。

 

——-チンタラしてんじゃねぇっ!さっさとコレ持って、テーブルの皿ぁ引いてこい!このウスノロ!

 

 なんて。

 声付きでハッキリと想像できる。

 

「俺からすれば、怒鳴って貰えるだけ有難いモンだと思いますけどね」

「へぇ」

「ダメな事をダメだと言って貰えるのは、まだ恵まれてます。ちゃんと、教えてくれてるって事ですから。親父さんは……十分優しいですよ」

「……そうか」

 

 俺の場合、親父のような怒声よりも、シンとしたオーディション会場の方がよっぽど怖かった。夢を掴む為の場所なのに、おっかなくて「早く終わんねぇかな」なんて、葬式みたいな気持ちもザラだった。

 

 緊張と不安の中、マイクの前で声を出す。声によるアナウンスだけで指示を受け、モタつこうもんなら、冷たい声で「早く」とか、「台詞を止めない」と進行のみを口にされる。俺の声が正解なのか、不正解なのか。誰も教えちゃくれない。

 

 俺にとっては、それが一番“怖いこと”だった。

 

「そういう所だろうな」

「ん?」

 

 シバの、唸るような、しかしどこか笑みを含んだ楽し気な声が聞こえた。

 

「親父のヤツだよ。ありゃあ一晩だけ働いた奴に対する金の出し方じゃねぇ。自分の下で、俺以外であんな風に働いてくれるお前が嬉しかったんだろうよ。ったく、どんぶり勘定ばっかしやがって。店を潰す気かっての」

「え?」

 

 シバのその言葉に、俺は慌てて、上着の内ポケットに仕舞いこんでいた給金入りの麻袋を取り出した。

そう、何となく量が多いような気はしていたのだ。どうやら、この給金は通常よりも多めに支払われていたらしい。

 

 まさか。何も分かっていない人間の俺なんて、安く買い叩かれると思っていたのに。

 

「ちょっ、えっと。すみません、シバさん。俺、そうとは知らずに……そのまま受け取ってしまって」

 

 麻袋の中身が、急に重みを増した気がした。この“重さ”はいけない。こんな俺みたいな“人間”が、受け取って良いものではない。

 麻袋を前に、俺が戸惑っているのを察したのだろう。シバは「ちげぇよ」と、慌てたように言葉尻を重ねてきた。

 

「まぁ。そりゃコッチの話だ。気にすんな」

「いえ。俺、相場とか分かってないですし、金の価値もよく知らないんで……。シバさん、あの、中身は昨日のままなので、払い過ぎた分を引いてください」

 

 そう、俺がズイと麻袋を差し出すと、シバは一瞬だけ目を大きく見開いた。しかし、何を思ったのか、すぐにその眉間に深い皺を刻むと「は?」と不機嫌そうな声を上げる。どうやら、怒らせてしまったらしい。

 

「別に、俺はそんなつもりで言ったんじゃねぇ。早くソレを引っ込めろ」

「……でも」

「俺は、そのくらい親父がテメェを気に入ってるってつもりで言っただけだ」

「……でも」

 

 でも、でも。

 シバの言葉を追いかけるように口にした俺の言葉に、次の瞬間。シバの眉が一気にツリ上がった。

 

「でもじゃねぇっ!?黙れ!それは親父がテメェに支払ったモンだ!つー事はだな!そりゃあ、うちの店からお前に対する、正当な対価と労いと感謝なんだよ!それを突き返すような野暮、すんじゃねぇ!親父を馬鹿にしてんのか!?」

「いや、そんなつもりは……ぜんぜん、なくて」

「じゃあ、さっさとソレを仕舞え。ポチ」

「……」

 

 シバの、その精悍で凛とした怒声に、俺はユラリと視界が揺れるのを感じた。この人の声は凄い。気持ちにウソも偽りもない事が、声でハッキリと分かる。だからこそ、シバと言う男の声は“精悍”で、こうもまっすぐ相手に響くのだろう。

 

 そう言えば、さっきテザー先輩が言っていた。

 

——-あそこの、息子は人間嫌いで有名なのに。

 

 確かにそうだ。最初、俺を雇うかどうかと揉めた時に、シバは本当に嫌そうな顔で俺を見ていた。『コイツは人間だぞ!』なんて、嫌悪を露わにしながら。

 でも、今は違う。

 

「……」

 

 再び、俺はシバへと差し出した、給金の入った麻袋へと目をやった。あぁ、これをくれた時、親父は俺に何て言った?

 

——-ほらよ!ご苦労さん!

 

 多く入れてやったとか、有難く思えなどといった恩を、親父は一切口にしなかった。シバも、出会い頭以降、俺を“人間”とは呼ばなくなった。俺がウソをついて名乗った“ポチ”と言う名を、今もこうして、当たり前のように呼び続けてくれている。

 

「……ったく、相手からの厚意はなぁ、テメェが昨日やったみたいに“ありがとうございました”っつって素直に受け取っときゃいいんだよ。じゃなきゃ、渡した相手が惨め過ぎんだろ」

「っ!」

 

 その瞬間、俺のもう一つの内ポケットにひっそりと横たわっていたイーサからの贈物が、シャラリと音を立てた気がした。

 

「……あ、ご、ごめんなさい」

「別に。分かったんなら、さっさとソレを引っこめろ。みっともねぇ事すんな」

「は、い。ありがとうございます」

 

 手を引っ込める際、麻袋の中でシャラシャラと音を立てるお金に、俺は思わず下唇を噛み締めた。“受け入れる”という感謝の在り方を、俺はこの時初めて、本当の意味で理解した気がした。