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「俺の名前は、仲本 聡志。イーサ。これからよろしくな」
それは、まさに今更過ぎる自己紹介だった。
俺達がこうしてお互いに扉越しの交流を重ねるようになって、優に一カ月以上は経過している。本当に、今更だ。
そんな俺の自己紹介に、イーサからのノックによる返事はない。ただ、イーサが扉のすぐ向こう側に居る事だけは分かる。
だから、いい。返事がなくとも、イーサに俺の口から、俺の名前を伝えられれば、それで十分なのだ。
「喜べ、イーサ。さっき部屋守を代わって貰ったからな。今回はいつもより長く一緒にいられるぞ」
この世界に来て、俺は自分の名前の必要性を、少しずつ失いかけていた。
ここの奴らと来たら、皆して俺の事を“人間”なんて呼ぶのだ。しかも、幸か不幸か、俺の周囲には“人間”は俺だけだった。そうなると、俺の“仲本 聡志”という名前の必要性は、ほぼ皆無に等しくなった。
「だから、イーサ。今日だけは特別。夜更かししてもいいぞ?」
そう、此処で“仲本聡志”の名前は、“人間”になってしまったのだ。まったく。おかげで、大変な目にあった。
なにせ、自分で自分の存在や気持ちを、認識できなくなっていたのだ。
終いには「人間の俺なんかが、」なんて、自分で口にするようになる始末。あぁ、危ない危ない。
「今日の俺は、絶対に途中で寝ろなんてつまんない事は言わない」
謙遜は過剰にやると卑屈を生む。なのに、大人はこの過剰な謙遜が大好きだ。
「うちの子なんて」「私なんて」「俺なんて」
なんて、なんて、なんてのごっこ遊び。子供の頃は、何で大人はすぐにそんな事を言うのだと思っていたが、俺も知らぬ間にやるようになってしまっていた。
本当にたまらない。
これは、臆病な大人が自分を守る為に口にした挙句、己を谷底へと突き落とすヘンテコな言葉だ。
「なぁ。夜更かしってさ、なんかワクワクしないか?」
俺は、自身の声に抑えきれない喜色を含ませながら、扉の向こうに居るイーサへと話しかけ続けた。
だが、やはり返事はない。こんなに静かなイーサは初めてだ。最近は必要以上にドンドンバタバタと、全身全霊で「イヤ!」を体現していたというのに。
「……ま、少なくとも俺はワクワクするけどな」
もう、イヤイヤ期は卒業したのだろうか。だとすれば上々。
なにせ、明後日から、しばらく俺は、イーサの側には居てやれなくなるのだ。
でも、俺が居なくなったらイーサは誰に“嫌な事”を伝えるのだろう。「イヤイヤ」と素直に発散できる相手が居なくなってしまえば、それだけでもストレスが溜まるんじゃないか。
それだけが心配だ。
「よいしょっと」
俺は、いつものように扉を背にしてその場に座り込むと、ポケットの中からあの記録用紙を取り出した。
「なぁ、ずっと立ってると疲れないか?イーサも座れば?」
中でイーサがどんな体勢で居るかは知らないが、見えてるフリして声をかけておく。こういうのうは、自然に、当たり前みたいにして言うのが大事だ。重要なのは、本当にそうか、ではない。
大切なのは、声をかける事。かけ続ける事だ。
「イーサ。俺さ、さっき街まで下りてたんだ。明後日からの訓練に必要なモノを、先輩に教えてもらいながら買い揃える為に。いっぱい買い物したぞ。なんか、普通にお泊りグッズみたいな感じだったけど。ただ。金は……先輩にちょっと借りた」
話ながら、イーサが訳してくれた掲示板の文章に、上から下までサッと目を通す。
うん、書いてある事は粗方準備が出来たはずだ。となれば、もうこのノートは俺には必要ない。
「早いなぁ。ここに来て、もうそんなに経つのか」
早いもので、一冊目のノートは、先程使い切った。
よくもまぁ、一カ月で全部使い切ったモノだ。パラパラとめくってみれば、それこそ様々な物語の台本が書き下ろされている。
ひとまず訓練でも一体何に使うか分からない為、さっきの買い物の途中二冊目を買っておいた。マナの練り込まれた防水用紙とやらがあったので、少し値も張ったがソレにした。
「たくさん“お話”したなぁ」
訓練中も、出来るだけ物語の台本を書く為に。雨に濡れて、グチャグチャになってはたまらない。
そう。ここに帰った時に、イーサに話してやれるお話は、多い方が良い。
「あぁ、そうそう。俺からイーサに、渡したいモノがあるから。後で、ちょっと扉を開けてくれよ。ほんと、ちょっとでいいからさ」
やはり、何のノックも返されない。静かだ。
「ちゃんと、こないだ言ってたご褒美もあるんだぞ」
俺は、自身の隣にドッサリと積み上げられた買い物袋の山と、未だに何の反応もみせないイーサに小さく溜息を吐いた。もうそろそろ、俺も限界だ。返事のない会話は、なかなか寂しいモノがある。
「イーサ、俺。明後日からしばらく、ここには来れなくなる。今、話しとかないと……ほら、俺って、もう寿命かもしれ」
コンコン。
ここに来て、イーサの十八番。二度のノック音が俺の言葉を遮って響いてきた。あぁ、やっといつものイーサに戻った。なんだか、そのノック音に酷くホッとしてしまう自分が居る事に気付き、思わず苦笑が漏れた。
なんだよ。「イヤイヤ期は卒業か?そりゃあ上々」なんて思ってた癖に。
「やっと、返事した。無視すんなよ。寂しいだろ」
コンコン。
何の事はない。イーサが、俺にだけ向ける「イヤイヤ」という意思表示を、どうやら俺は気に入っていたらしい。けど、そりゃあそうだろ。
だってさ、あんな激しい「イヤイヤ」なんて。
「え?無視してないって?無視したじゃんか。俺、ずっと一人で喋ってただろうが」
コンコン。
心の許した相手にしか、なかなか言えない言葉なんだから。
「そんなつもりはない?へぇ、じゃあイーサは何で返事しなかったんだよ」
無音。
「あ」
あぁ、いけね。こう言う尋ね方をしたら、イーサが答えられないんだった。やっと返事をしてくれた事で、ちょっと気が急いていたらしい。
仕方がない。話題を変えよう。もっと、こう。イエス、ノーで答えられる話を、
「かんがえて、いた」
その瞬間、俺の中の時間がピタリと、音を立てて止まった気がした。
声が聞こえた。扉の向こうから、確かに、俺ではない声が。
「いーさ?」
俺は勢いよく扉に向かって振り返ると、扉に向かってピタリと耳をくっつけた。
確かに聞こえた。イーサの声だ。そして、この声は、なんだ。酷く懐かしいような気もするし、けれど、まったく初めて聞くような気もする。
誰だ、お前は。