49:憧れる人、嫉妬する人

 

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『なぁ、サトシ!凄かったな!飯塚さん!』

『うん……。すっげー凄かった』

 

 すっげー凄い。

 元々無い語彙力が、興奮で更に消えて無くなっていた。そのくらい、その時の俺は興奮していたのだ。

 

『なー?サトシ。やっぱ聞きに行って良かっただろ?』

『うん、うん!良かった!……ほんっとに、格好良かった!やっぱ、あの人はスゲェ人だ!』

『……そんなに?』

『なんだよ!格好良かったじゃねぇか!すげぇなぁ!ほんっとに、すげぇ!』

 

 養成所のレッスンに飯塚さんが来てくれた日。

 俺は金弥に無理やり引っ張られ、半ば逃げ腰の中、飯塚さんに話を聞きに行った。最初はもちろん緊張した。いや、むしろ怖かった。

 

 だって、飯塚さんはベテラン中のベテランで、声優界の“重し”なのだ。そんな大物に、まだ声優としてデビューも出来ていない、ヒヨっこどころか、卵の中から生まれてすらいない俺達などが、おいそれと話しかけていい人ではない。

 

 そう、思っていたのに。

 

——–なぁ、サトシ!どうやったら上手に格好良い声が出せるか聞きに行こうぜ!

 

 そんな俺の手を、金弥が引いて走った。

 まるでアニメの主人公みたいに。

 俺のなりたかった、全てのキャラクター達みたいに。

 

『……』

 

 むしろ、昔は俺が金弥の手を引いて走っていたのに。

 いつの間に、立場が変わってしまったのだろう。

 

『……サトシって、そんなに飯塚さんのファンだったっけ』

『うーん、元々スゲェって思ってたけど、さっき話してみて……すっげーファンになった!話せて……ほんとに、良かった』

 

 金弥のどこかジトッとした視線を受け流し、俺は先程飯塚さんが話してくれた事を忘れないようにと、急いで胸ポケットから手帳を取り出した。

 

 そうなのだ!俺は今さっき、飯塚さんから素晴らしい金言を貰ったんだ!

 

『えーっと。さっき飯塚さんは、何て言ってたっけ?才能って言うのは……。なぁ。なぁ!なんだっけ?キン』

『知らね』

『はぁ?何怒ってんだよ。ワケわかんね。お前が聞きに行こうって言ったのに……あぁぁぁっ。一言一句間違えたくねぇ!』

 

 飯塚 邦弘。

 その渋い見た目同様、昭和の頑固おやじ的気質で、きっと言葉じゃなくて、背中を見て覚えろよってタイプなのかとばかり思っていた。こういう人は、言葉であーだこーだと聞かれるのも、もちろん、語るのも嫌がるだろうって。

 

 でもそれは、俺の勝手な思い込みだった!

 話してみたら、全然そんな感じじゃなくて、ぶっきらぼうな話し方ではあるけれど、ちゃんと目線を合わせて応えてくれる。

 

 金弥の言う通り「声優界のお父さん」みたいな人だった。

 

『っ思い出した!』

 

—–君の言う才能とは何だ。天によって与えられた声質か?役柄の全てを鋭敏に感じ取れる感受性か?なら、俺の思ってる才能とは違うな。俺の思う才能ってのは、

 

 

『人生で幾度も巡ってくる機会を迷いなく掴み取る握力と、失敗した時に、そこから学べる冷静さだ。今、まさにベテランだ何だと呼ばれる奴らの殆どは、最速で失敗を繰り返し、それでも立ち上がって来た、神経のイカれた馬鹿共の事だ。だ!』

 

 良かった!全部思い出せた!

 頭の中で飯塚さんの声を再生しながら、急いでメモを取った。普段の台詞起こしの経験が、まさかこんな所で役に立つなんて!

 

『……俺、まだやれる』

 

 そうやって必死にメモを取りながら、俺は飯塚さんの言葉に勝手に救われていた。失敗ばかりで、成功経験なんて殆どない俺に『キミは、まだまだこれからじゃないか』と、肩を叩いて貰えた気がしたのだ。

 

 俺は手帳に飯塚さんの言葉を書き終えると、『はぁっ』と、その金言を自身の血肉にするように深く息を吐いた。嘆息というヤツ。そして、しみじみ思った。

 

『俺、飯塚さんみたいに……なりてぇなぁ』

『へー』

 

 そう、俺が感極まりながら言うと、金弥は既に飯塚さんになど興味を失くしたかのように、ぼんやりと遠くを眺めていた。

 金弥は、たまにこんな風になる。いつも、何にでも興味を持ち、果敢に様々な事に挑戦をしていく金弥とは思えない……無気力で無感情な横顔。

 

『へーって、お前なぁ』

『なぁ、サトシ。もう帰ろーぜ。今日はバイト無い日だろ?俺も一緒にサトシん家に行くから』

 

 なんだよ、金弥が飯塚さんに聞きに行こうって言ったのに。

 

『……そーかよ』

 

 あんなに一緒に飯塚さんに興奮していたのに。

 

 急に自分だけ勝手に冷めてしまった金弥に、俺は酷く物足りない気持ちになっていた。なんだよ、一緒に『スゲー!』って言ってくれないのかよ。

急に、繋いでいた手を離されて、置いていかれた気分だった。

 

『サトシ?』

『……急に一人だけ冷めんなよな。つまんねーじゃん』

 

 自分でも子供っぽい事を言っている自覚はあった。けれど、口にしてしまったものは仕方がない。

 

『……ごめん、キン。今のは忘れてくれ』

『サトシ』

 

 それでも、こうして俺が飯塚さんと話す事が出来たのは、全て金弥のお陰だ。もう、それだけで有難いと思う事にしよう。いや、実際そうだ。

 

 そう、まさに。俺は飯塚さんと話すという目の前にあった“機会”を、金弥のお陰で取りこぼさずに済んだのだ。ほんとは、自分の握力で掴まなきゃいけなかったのに。

 

『……次は、自分一人でだって掴めるようにしないと。そう、仲本聡志は決意した』

 

 俺は自身に戒めるように、セルフ語り部をやった。

 いつもはもう少し、誰にも聞こえないような声でやるのだが、今は自分の声を、決意を、自分の耳で聞きたかった。これは、自問自答をしなければならない内容なのだ。

 

『サ、サトシ……?』

『うん、がんばろ。一人でも、掴めるように……そう、仲本聡志は、』

『なぁ、おい』

 

 隣に居た金弥が、戸惑ったような声を上げる。

 けれど、気にしない。だって、この俺の変わった癖の事は、金弥も昔から知っているのだから。むしろ、金弥だけしか知らない。

 

 だから、金弥になら聞かれたって構わない。

 

『なぁ、サトシ。サトシってば!』

『……ん?なんだ?どうした』

『えっと、あのさ』

『あぁ、晩飯か?』

 

 金弥が、必死な声で俺を呼ぶのが聞こえた。顔を見てみれば、何故か怯えたような表情で俺の顔を見つめる金弥が居る。なんで、金弥がこんな顔をするのだろう。

 

 そんな、まるで置いて行かれた子供みたいな。

 

『なんだよ。そんなに腹が減ったのか?つっても金も無いし、大したモンは』

『ちがくて!』

『じゃあ、何だよ。どうした?キン』

 

 言いながら、俺がメモした手帳をポケットに仕舞いこもうとした時だった。金弥の手が俺の手首をガシリと掴む。その熱い掌を起点に、長いゴツゴツとした金弥の指が、俺の手の甲ごと手帳を包み込む。

 

『サトシ、あの。あのさ』

『な、なんだよ』

 

 あれ、金弥の手って、こんなにデカかったっけ?

 

『……オレにも、飯塚さんの言葉、メモさして』

 

 金弥の口から、先程の態度とは正反対の言葉が零れ落ちて来た。そんな盛大な掌返しに、俺はと言えば――。

 

『っい、いいぜ!ほら!』

 

 本当は嫌味の一つでも言ってやろうかと思った。けど、無理だった。

 金弥のその言葉に、俺の中にあった不安が一気に消えてなくなるのを感じると、ホッとして思わず笑ってしまったのだ。

 

『なんだ、お前も気になってたんじゃんか』

『……うん。気になってた。あの、だからさ、サトシ』

『ん?』

『次も、一緒に、俺も行くから。一人で行くなんて……言うなよ』

 

 その時の、どこか必死な金弥の声が、いつもと違って聞こえた。いつもの少し高めの、明るくて朗らかな、主人公みたいな声ではなく、

 

『あ、』

 

 少し低くて、発声した語尾の震えに微かな渋みがある。これはまるで。

 

『なぁ。キン、お前さ』

『へ』

 

 そして、手帳を仕舞うのをやめると、すぐに金弥にソレを差し出す。差し出しながら、俺はふと金弥の声の変化に、なんとなく思った事を口に出していた。

 

『お前の低い声って、なんか、飯塚さんの声に似てるかもな』

『……っ!』

 

 金弥が手帳を受け取る。受け取る時、何故か俺の手ごと握り込まれた。熱い。

 

『ほんと?』

『あぁ、ちょっとだけな。お前ってさ、こう……主人公みたいな元気で、高い声のキャラばっか練習してるけどさ、声の低いキャラもイケんじゃね?案外似合ってるかも』

『……!』

 

 その瞬間、金弥はその目を子供の時のようにキラリと輝かせると、俺の手から今度はしっかりとノートを受け取った。

 

『うん、やってみる。俺も、飯塚さんみたいな声、目指してみよっかな』

『おう。目指そ目指そ。一緒に飯塚さんみたいになろうぜ』

『うん!そうしよ!飯塚さん、格好良いもんな!』

『な!』

 

 そう言って笑っていたその時の俺は、気付きもしなかった。この俺の言葉が、金弥の声優としての道を大きく拓く事になるなんて。

その瞬間から、金弥の武器はそれまでと違い、酷く鋭利に、より強く、先端を尖らせた。

 

 

 そう。アイツの真価は、地声よりも低い、けれど、朗々と響く低音にある。

 

 

『俺の声さ、飯塚さんより格好良くなった?』

 

 

 金弥が笑顔で振り返って俺に尋ねる。

 俺と金弥の間の差が、更に広がった瞬間だった。