57:山吹金弥

 

 

 山吹 金弥は元来、自分という存在を上手く認識できない子供だった。

 

 

『きん君って……なに』

『きん君って……どこ』

『きん君って……いつ』

 

 そんな、不思議な事を言う子供だった。

 

『きん君って……だれ』

 

 そして、そんな金弥には、父親が居なかった。

 

『キン君は、良い子だよ』

 

 否。そう言って優しく自分の名前を呼んで頭を撫でてくれた父親というモノが、かつては彼にも居たのだ。

 しかし、そんな父親もいつの間にか金弥の前から居なくなった。否、父親が居なくなったのではなく、金弥と母親が彼の前から姿を消したのだ。

母は金弥の手を引き、かつての“家”と呼ばれた場所を出た。

 

 母親が言うには、金弥の父親はとても心の弱い人だったらしい。

 

『だから、金弥はお父さんみたいにはならないでね』

 

 これは、母親が金弥に言う口癖のようなモノであり、金弥にとっては耳を塞ぎたくなるような呪いの言葉だった。金弥は、記憶が薄らいで尚も残る父親の『キン君』という、自分を呼ぶ、その優しい声が好きだった。

 

 のちに、金弥は知る。

 金弥の父親はとある宗教に、その心の全てを預けてしまっていたのだと。何でそうなったのかはよく知らない。ただ、父親にとっての一番は、自身の信じる神に全て捧げられ、生活は二の次になっていたのだ。

 

 だからこそ、金弥の家からはどんどんモノが無くなっていった。もちろん、お金も。

 

 その経済的負担の煽りを受けた金弥の母親は、金弥を連れて実家へと帰った。

 

 夫が新興宗教にハマり身を滅ぼした。妻であった彼女の精神状態は、それはもう酷いものだったのだという事は、今になれば分かる。

 しかし、当時の幼い金弥にとっては、そんな事、分かりようもなかった。ただ、分かるのは――。

 

『お母さん。きん君ね、』

『やめてちょうだい!何度言ったらわかるの!?金弥!?“ぼく”でしょ!?ほら、言いなさい!』

『う、うぅっ』

 

 

『金弥。そんなモノ、いつまで持ってるの?ほら、貸しなさい』

『……どうするの』

『お母さんが、しまっておいてあげる。もうすぐ五歳になるのに、そんなの持ってたら恥ずかしいでしょ』

『……いや』

『金弥!いい加減にしなさい!』

 

 

 金弥は母親の金切声が恐ろしくて仕方がなかった。だからだろう。幼い金弥は、女性の甲高い声を聞くと、それだけで体が固まって動かなくなった。

 

 そして、それは成長した後も同様で……。さすがに、体が固まって動かなくなるなんて事はなかったが、女性の高い声が、金弥の心と体に、じわりと染み付く不愉快さとして残っているのは確かだった。

 

 そんな中、金弥もずっと孤独を感じていた訳ではない。金弥にも、頼れる味方が二人居た。

 祖父と、向いの家住む仲本聡志という少年だ。

 

 祖父は、なにかにつけて金弥を助けてくれた。

 別に、甘やかしてくれる訳でも、優しい言葉をかけてくれる訳ではなかったが、金弥が母親に怒鳴られていると必ず、不器用な声で『こっちに来なさい。草むしりをするぞ』と、半ば無理やりな助け舟を出してくれるのだった。

 

 祖父は、金弥に“安心”を与えた。

 金弥は、静かな祖父が好きだった。

 

 

 そして、もう一人が、向かいの家に住む、仲本聡志という同い年の少年だ。

 彼は恐怖と不安ばかりだった金弥の毎日を、驚くほど明るく照らした。俯いてばかりで、殆ど笑う事のなかった金弥に、聡志は笑顔を与えた。

 

『キン!見てろ!今からおれが“アニメ”だ!』と、金弥の知らないアニメという世界も教えてくれた。聡志は、喋るのが苦手な金弥に対して苛立つ事はなかったし、むしろ、金弥が何も言わずとも、言いたい事を分かってくれた。

 

 そして、なにより聡志の手は、とても温かかった。

 

 聡志は、金弥に“楽しさ”を与えた。

 金弥は、優しい聡志が好きだった。

 

 

 けれど、金弥は自身の中にある『金弥とは一体何なのか』という、ぽっかり空いた穴を、埋める事が出来ずにいた。漫然と、彼の中にあるのは自己の不明瞭さ。その為、金弥はいつも不安定で歪な気持ちを抱えていた。

 

 

 そんな中。金弥が小学校への入学を間近に控えたある日。

 

 金弥を支えていた双璧の一人。

 祖父が亡くなった。

 

 

『……金弥、もう小学生にもなるのに。……どうしておねしょなんかするのよ。ねぇ?どうして?』

『……ごめん、なさい』

『お母さんを、これ以上困らせないで』

『……ぁむ。ぁうぅ』

『金弥っ!ソレも止めなさいって言ってるでしょう!?』

 

 

 祖父の死は、金弥に多大な精神的ダメージを与えた。

 祖父の居ない不安、母と二人という緊張。

 

 祖父が居なくなったストレスからか、それまではしていなかったおねしょもするようになった。

 それに加え、指の皮や、爪を噛むという、新たな癖も出来てしまった。おかげで、金弥の幼い指は、常にボロボロだった。爪はガタガタだし、指先端の皮は捲れて常に血が滲んでいる。

 

 痛いのに、止めたいのに。

 

 

『いたい』

 

 

 止められなかった。

 

 

 そんな中、金弥の心を支えたのは、聡志だった。

 もう、聡志だけだった。

 

『キン!昨日の続きを話してやるから!見てろよ!』

『うん!』

 

 金弥と聡志は変わらず毎日二人で遊び続けた。場所はいつもの秘密基地。聡志の家の脇にある物置の中だ。

 その中は、狭くて薄暗い。けれど、だからこそ金弥はその場所がどこよりも安心できた。すぐ隣には、大好きな聡志も居る。

 

——-金弥、最近遅くまで遊びすぎよ。もう少し早く帰ってきなさい。

 

 母親の言葉が、金弥の耳の奥に突き刺さる。ゾクリとした。吐き気がする。耳を塞いでも聞こえてくるその声に、金弥は秘密基地に居るにも関わらず、いつもの癖で指を口へと持っていこうとした

 

時だった。

 

『なぁ、キン。おちゃらかしようぜ』

『え』

 

 先程まで「見てろよ!」と、今にも昨日の続きを話し出そうとしていた聡志が、突然そんな事を言いだした。そして、金弥の返事など聞かずに、今にも口へと咥えられそうになっていた金弥の手を聡志が両手でギュッと握った。

 

 顔を上げてみれば、そこにはいつもと変わらぬ聡志の笑顔。

 

『せっせっせーの、よいよいよい』

 

 聡志の歌とともに、思わず金弥も聡志に合わせて手を動かした。染み付いた子供の性である。パチン、パチンとお互いの小さな手が二人の間で、乾いた音を響かせる。

 

『おちゃらか、おちゃらか、おちゃらか、ほい』

 

 聡志の歌声が、金弥の耳の奥に居座っていた母親の声を、すっぽりと覆い隠す。そして、何巡かした後、聡志は『はい、おわり』と言うと、そのまま金弥の手を繋いだまま、昨日のアニメの続きを話し始めた。

 

『昨日の続きからいきまーす!』

『う、うん!』

 

 金弥も、最初は気付かなかった。

 聡志はいつも突然だなぁと、最近になり、突然はじまる聡志の『おちゃらか』に、何の疑問も持たなかった。ただ、金弥は聡志に手を握って貰えて、ただただ嬉しさで満たされていた。

 

 そうやって、理由も分からず聡志から突然始まる『おちゃらか』。

その理由に、金弥はその後すぐに気付く事となった。