58:新しい基準

 

 その日。ちょうど二人が庭に出て遊んでいる時だ。

 

『金弥!どこに居るの!?金弥!』

『っ!』

『早く帰って来なさいって言ったでしょう!あんまりお邪魔すると、仲本さん家にもご迷惑になるからって!どうして言う事を聞かないの!?』

 

 金弥の母親が、眉間に皺を寄せて酷く苛立った様子で向かいの家から飛び出してきた。空を見上げてみれば、日は深く落ちかけている。

 

 楽しい時間は、いつもあっという間なのだ。

 

『ごめんね、聡志君。いつも金弥と遊んでくれてありがとう。もう金弥は連れて帰るから……金弥!ほら、来なさい!帰るわよ!』

『……ぅ、ぃや』

 

 こんな怒った母親と共に家に帰るなんて、金弥にとっては地獄以外の何者でもなかった。嫌だった。帰りたくなかった。聡志とずっと一緒に遊んでいたかった。

 

 しかし、金弥が小さく『いやだ』と拒否を口にした瞬間、母親の顔がこれでもかという程歪んだ。その瞬間、金弥の中で膨れ上がった恐怖とストレスが、一気に彼の指へと向かう。

 

 ぜんぜんおいしくないけど、いたいけど、はやく、じぶんのゆびを、たべないと。

 

『キン!お、おちゃらかしよう!』

『……え』

『さ、聡志君?』

『せっせっせーの、よいよいよいよい!』

 

 気付けば、金弥の手はまたしても聡志の手の中にあった。聡志の顔を見てみれば、今の聡志は必死に笑おうとしてはいるものの、顔が引きつっていた。

 

『おちゃらか、おちゃらか、おちゃらか。ほい!』

 

 そりゃあそうだ。

 いくら聡志とは言え、相手は大人だ。しかも、金切声をあげ、怒鳴りつけてくる……話の通じない“恐ろしい敵”だ。

 しかし、聡志はいつもの如く金弥の手を取った。

 

『おちゃらか、どーてん。おちゃらかほい』

『おちゃらか、まけたよ。おちゃらかほい』

『おちゃらか、かったよ。おちゃらかほい』

 

 リズム良く続く、聡志のいつもより必死な歌声。この歌遊びは、本人たちが終わらそうと思わなければ、延々と続くのだ。

 それに対し、金弥はやっと気づいた。聡志の突然始める『おちゃらか』の意味を。

 

『サトシ……』

 

 結局、延々と続く『おちゃらか』に、みかねた金弥の母親は、戸惑いながらも金弥を無理やり引っ張って連れ帰った。

 そんな金弥の後ろ姿に、聡志は大きな声で言ったのだ。

 

 

『キンー!また明日―!また明日もあそぼうなー!毎日いっしょにあそぼうなー!』

 

 

 それは、金弥に言っているというより、金弥の母親に向かって放たれている言葉だと、それはすぐに分かった。その声を背中に聞きながら、金弥は、その瞬間自身の中で何かがピタリと埋まるのを感じた。

 

『サトシ……』

 

 金弥は真っ暗な部屋で、布団にくるまりながら、自身のボロボロの指を見た。

 

『サトシ、サトシ』

 

 聡志は、一度だって金弥に対し『やめろ』とか『そんな事するな』と言った否定を含むような静止はしてこなかった。『おちゃらかしよう』と、笑って口にすることで、金弥のストレスからくる、半ば自傷行為ともとれる癖を止めていたのだ。

 

『サトシサトシサトシサトシ』

 

 何度も、何度もその名を口にする。

 聡志の名を口にする度に、金弥の中にあった『金弥とは一体何なのか』という、不明瞭さが一気に開けて行く。歪で、不安定だった気持ちが、酷く安定していくのが分かった。

 

 その日から金弥は、日々、自分自身の存在に明確な“解”を得ていった。

 

 

——–いいなぁっ!カッコいいよなー!おれもこんな風になりてーな!キンもそう思うだろ?

——–この時のセリフがカッコよくて!もう一回言うから聞いてろよ?

——–今までのアニメの主人公で一番好きなのが誰かって?ええぇぇっ!すぐには決めらんないよ!ちょっと待てよ!かんがえるから!

 

 

 そして、毎晩。その日の聡志の言葉を反芻しては綺麗に答えのカタチを整えていく。

 

『きん君、サトシの好きなのになる』

 

 聡志が好きで、聡志がなりたいもの。それが“金弥”になる事。そうすれば、聡志はずっと“金弥”と一緒に居てくれる。

 

 そして、小学校に上がる頃までに、金弥は少しずつ、少しずつ変化していった。

 

『サトシー!オレさー!』

『いこうぜ!サトシ!』

『なぁ!サトシー!』

 

 元気で明るくて、堂々としていて、声もハキハキして。もちろん自分の事を“きん君”なんて呼ばない。一人称は必ず、“オレ”だ。アニメの主人公のように、勇気があって、笑顔で、仲間の手を引いて、何にでも興味を持って、強くて、カッコ良くて。

 

 ともかく、金弥は“聡志の好きな主人公”になれるように自らを変えていった。そうすることが、聡志の“一番”で居られる事だと信じた。

 

 

『サトシ、サトシサトシサトシサトシ』

 

 

 金弥を突き動かしたのは、己の価値観とは別の“仲本聡志”という、新たな基準。言わば、篤い、篤い、信仰心だった。

 金弥にとって仲本聡志は、“神様”になっていたのだ。

 

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「……っはぁ、っはぁ。っく、サトシ。サトシっ」

 

 金弥は夜になると、何度も何度も、彼の信じる神様の名前を呼ぶ。そうして、真っ暗な部屋の中で、今日も一人、神への信仰を深めるのだ。

 

 自身の手の中に吐き出された熱が、酷く生々しい匂いと生ぬるさを放つ。

 シンと静まりかえる、一人暮らしの部屋。そこは、こうして金弥が熱を吐き出した後、いつも寂しさを増幅させる。あぁ、早くずっと“一緒”にならないと。

 

——お前の低い声って、なんか、飯塚さんの声に似てるかもな。

「……サトシは、きん君の」

 

 金弥は、聡志の望む自身の低い声で、記憶の中の全ての“仲本聡志”を抱き締めた。

 

 山吹 金弥の中には、いつになっても”子供の頃の彼“が眠っている。