75:マナと感謝は霧散する

 

        〇

 

 

「くそ……、死ぬかと思ったっぷ、うぇっ」

 

 

 俺は盛大に腹の中のモノを吐き出しながら、チラと周囲を見渡した。

 すると、そこは先程まで出立式の行われていた、美しい景観の王宮前広場ではない。

 

「ここは……うえっ」

 

 あぁ、もっと周囲を見渡したいのに、未だに頭と腹がグラグラする。

 まさか、転移魔法とやらが、こんなに酷い酔いを引き起こすモノだなんて思いもしなかった。

 

——-各隊、順番に転移ゲートをくぐれ!

 

そう、出立式を終え、移動には転移ゲートを使うと言われた時、正直、俺はワクワクした。まさか、急にこんなファンタジー要素たっぷりの体験をする事が出来るなんて思いもしなかったのだ。

 

——–転移魔法なんて、ゲーム終盤でしか使えねぇやつじゃん!楽しみだなぁっ!

 

 しかし、そうやって笑っていられたのも束の間。そこからは完全に地獄だった。転移ゲートの魔法陣に乗った瞬間、俺の意識は完全にイカれた。

 内臓が凄まじい勢いで上下左右に揺さぶられるような感覚。目を瞑っているにも関わらず、激しく揺れる視界。耳の奥の鼓膜が一気に破けるような痛みも加わり、ともかく最低最悪だった。

 

 そして、気が付けば、俺はここに居た。

 

「……あ、ありえねぇ」

 

 地面に手をつき、再び「うえっ」と胃液しか出ない嘔吐を繰り返しながら、ゆっくりと周囲を見渡してみた。

そこは、ゴツゴツとした岩石の集まる、鬱蒼とした山の中だった。少し先には、入口が古い木枠で囲われた、薄暗い坑道が見える。

 

「ほんとに、転移してる……でも、」

 

 口の横を伝う胃液を拭いながら、俺は思わず呟く。

 

「……ここが、“大いなるマナの実り”のある、場所?」

 

 大いなるマナの実り。

それは、先程の出立式で、何度も何度も耳にした言葉だった。ソレこそ、今回の任務の最大の目的らしいのだが。

 

「……これは」

 

 イメージと全然違う。

 “大いなるマナの実り”、というくらいなので、もっとこう、清廉な湖とか、そびえ立つような大樹のある場所を想像していたのに。

 

これじゃあまるで炭鉱労働に来たみたいじゃないか。

 

「おい、大丈夫か」

 

 そう、俺が余りにも予想外な場所に茫然としていると、聞き慣れた色気のある声が頭の上から降って来た。

 

「テザー先輩……はい、俺は、あんまり大丈夫じゃないですけど、大丈夫です」

「どっちなんだ」

「……日本人は大丈夫じゃなくても、大丈夫って言っちゃうんですよ」

「ニホンジン……よく分からんが。大丈夫なら、そろそろ立て。もうすぐ集合がかかるだろう」

「……ハイ」

 

 この日本人の繊細な心の機微は、先輩には全く伝わっていないらしい。俺は、大丈夫じゃないのだ。

 とは言っても、いつまでも蹲っている訳にもいかないので、俺はそろそろと立ち上がった。しかし、

 

「っうぷ」

 

まだ腹の中のグルグルが残っていたのか、あり得ないくらいに目の前がフラついた。思わず口を手で覆うが、もう吐き出すものは何もなく、胃液すら出てこない。

ただ、気持ち悪いのだけは延々と腹の底に居座っているようで、俺自身、もうどうすりゃいいのか分からなかった。

 

「うぅっ」

 

苦しい。辛い。泣きたい。いや、もう泣いてるけど。

俺は両目からボロボロと零れ落ちてくる涙を止められぬまま、とめどなく襲ってくる気持ち悪さの中で溺れていた。

 

「……これは」

「っうぅ」

「これだけマナを、腹の中に飲み込むヤツも珍しいな」

「え?」

 

テザー先輩は俺の肩を支えつつ、ソッとその綺麗な指を俺の腹部へと押し当てた。すると、その瞬間、ふらついていた視界が一気にクリアになる。気持ち悪いのも嘘みたいになくなった。

 

「……へ?あれ?」

「大丈夫か」

「あ、はい……あれ?なんで?」

「マナへの耐性が無い人間のお前に、転移魔法なんて高度な魔法を使用したせいだ。マナの残滓が体に残って酷い“酔い”を起させたんだろう」

 

 原理はよく分からないが、マナに耐性のない……すなわち“人間”が高位な魔法に触れると、さっきの俺みたいになるらしい。何だソレ。

 

「……そういうの、事前に言って欲しかったなァ」

「俺達エルフは、無意識にマナを放出処理するからな。失念されていたんだろうさ」

「さいですか」

 

まぁ、しかし。無事にあの地獄からは脱出できた。どうやら、マナ酔いに対しテザー先輩が何かしてくれたらしい。多分、マナを放出させたとか、なんとか。

 

「テザー先輩。助かりました……マジで死ぬかと思ったんで」

「別に。だいたい、マナ酔いごときで大袈裟な」

「大袈裟じゃねぇし!苦しかったし!死ぬかと思ったし!先輩はアレを体験してないから、そんな事が言えるんだ!」

 

 俺は体から完全に消えた気持ち悪さに、此方を見下ろすテザー先輩に向かって食ってかかった。

なにが大袈裟なものか!あの苦しさは本当にヤバかったんだ!

 

「あぁ、もう。ハイハイ。分かった分かった」

「分かってねぇよ!テザー先輩は!」

「あぁ、もう。うるさい。分かってやったところでどうしようもないだろうが」

「俺が分かって欲しいのは、俺の苦しさじゃねぇし!」

「じゃあ、なんだ」

 

 どこか面倒臭そうな態度で俺から目を逸らす先輩に、俺はチラと地面を汚す、おびただしい俺の吐瀉物に目を向けた。汚ねぇ。

 でも、こんだけ吐いたんだ。ほんとに、ほんとに、苦しかったんだ。だから、

 

「先輩は物凄い事を、俺にしてくれたんですよ!……だからぁ」

 

 先程の苦しさを思い出し、後半、見事に声が裏返えってしまった。そして、瞳の中に残っていた涙が、最後にボロリと零れ落ちる。

 

「あ、ありがとうございますぅ」

 

 俺は、地面を大量に汚している吐瀉物を横目に見ながら、先輩に深く頭を下げた。もう、こればっかりは感謝してもしきれん。本気で死ぬかと思っていたのに、あの苦しみが一瞬で消えたのだ。

 

 そんな俺に対し、頭の上からは、またしても「別に」という、少しばかりいつもの色気が控えめになった声色で返事がきた。

 

「……あのままじゃ任務で使い物にならんからな。俺がせずとも誰かがやったさ」

「でも、実際にやってくれたのはテザー先輩だったじゃないですか」

「……」

 

 そうだ。

 少なくとも、最初に俺が嘔吐し始めた時、周囲に居た皆は『短命ご苦労さん』と、笑っているだけだった。そして、さすがに、皆の前で嘔吐するのに耐えられなくなった俺は、ともかく必死に地面を這って草むらに向かい、隠れながらずっと吐いていたのだ。

 

そこに、来てくれたのがテザー先輩だった。

 

——おい、大丈夫か。

 

出立式の前もそうだった。迷子になっている俺を探しに来てくれたのは先輩だ。そんなの、誰だって助けられたかもしれないが、実際に俺を助けに来てくれたのは、“テザー先輩”だけだったじゃないか。

 

こういう時、俺はやっぱり大好きなビットの台詞を思い出してしまう。

 

「誰でも助けられるかもしれないけど、でも実際に助けてくれたのはテザー先輩だけだった。助けて欲しい時に、手を差し伸べてくれた人の事は、助けてもらった人間からすれば、特別なんだ」

——–だから、アンタは俺にとって、もう“特別”なんだ!

 

 ビットはそう言って笑う、誰でも信じる主人公だった。所以、“お人よし”というヤツだ。

そのせいで、終盤、ずっと信じていたゴックスの兄貴からの裏切りにも一切気付く事はなかったのだが、それでもビットは、ゴックスの兄貴との“それまで”を後悔したりしなかった。

 

 相手にどんな事情や心情があれ、してもらった事には真摯に向き合い感謝する。そんなビットの姿は、ともかく筋が通っていて格好よかった。

 

相手の気持ちなんて、必死になったって結局分かりはしないのだから、ビットは正しかったんだと思う。

 

「だから、ありがとうございます。テザー先輩」

 

 大人だから、俺も完全にビットのように何でも信じる事は出来ない。けど、感謝の気持ちを持つ所くらいは、ビットの真似ができればいいと、大人になった今でも思う。

 

ビットは、今でも俺の一番の主人公だ。

 

「……特別、か」

「へ?」

 

 すると、それまで驚いたような目で此方を見ていた先輩が、一人で納得したように大きく頷いた。頷いて、とんでもない事を言ってきた。

 

「その言葉。忘れるなよ」

「あ、はい」

「サトシ・ナカモト。お前、今後も何があっても今日の事を忘れず、俺に一番懐け」

「あ、え?」

 

 ナニコレ。急に先輩の態度が激変した。先程までは「別に」という知的でクールな感じだったのに、今はそうだな。一言でいうと、

 

「将来、もし、お前が何か大物になったら、今の自分があるのは、テザー先輩のお陰です、と言うんだぞ」

 

 バカっぽくて、図々しい。先程まで胸いっぱいにあった感謝の心を、一気に放出させるくらい、図々しかった。

 

「えぇ……」

「なんだ、俺に感謝しているんだろう。あれはウソか?」

「あ、いえ。……わかりました。もしそう言う事があったら、ちゃんと言います」

「そうしろ。その気持ちさえ忘れなければ、俺はこれからも、お前を助けてやろう」

「……ハーイ」

 

 ひとまず頷いておいたが、俺は目の前で得意気な表情を浮かべる先輩に、なんとも言えない気持ちになった。賢そうな顔をしてはいるが、この人はもしかすると、夜のあの顔がホントの顔なのかもしれない。

 

 一言でいうと、

 

「バカなのかもしれない」

「なんだ?」

「いえ、こっちの話です」

 

 俺は、どこか涼し気な顔で口元に笑みを浮かべるテザー先輩に、なんとも言えないヌルい気持ちを抱いてしまったのであった。