111:イーサの不安

 

 

 

——-いーさ!いーさぁ!どこぉ!あけてぇ!

 

 

 サトシのマナの残滓が、イーサの耳を突く。

それはもう、何度も何度も。毎晩、毎晩。

 

「さとしっ、さとし、さとし、さとし!なんでっ!!」

 

 イーサは腹の底から湧き上がってくる感情の渦に、大いにその身を委ねていた。

ベッドの上の枕やクッションは幾度となく爪を立てたせいで中の羽が周囲に飛び散り、更に、部屋の様々なモノを投げ散らかしたせいで、大量の破片が床に散乱している。

今やイーサの部屋は、夜盗にでも襲われたのではないか、という程に荒れ切っていた。

 

 そして、部屋以上に荒れているのは――。

 

「どうして!どうしてどうしてどうしてっ!!」

 

 イーサだ。

 彼は短くなった髪を振り乱し、体中のあちこちに傷を作っていた。

そんな、イーサの様子を眺めるのは、あもだけ。

イーサがどうしてそんなに荒れているのか。それは、完全に“サトシ”が原因であった。

 

「サトシは、イーサに会いに来てくれないっっ!?」

 

 “あの日”以降、サトシはイーサの夢に一度たりとも現れなくなってしまった。

あの日。つまりは、サトシとイーサがすれ違いを起こしてから、今や一週間が経った。その間、あれほど毎日『いーさぁ!』と、転げまわる子犬のようにイーサの元へと駆けて来てくれていた幼いサトシは、今や一度もその姿を現さない。

 

それどころか、昼間に幾度となく感じていたサトシの感情すらも、掴む事が出来なくなっていた。

 

「あも!答えろ!どうしてサトシはイーサの所に来ない!なんで!どうして!」

 

 終いには、イーサはあの大好きなあもにすら拳を立てていた。にっこりと笑うその顔に、イーサの拳の痕が付く。それでもあもは笑う。そして、もちろん何も応えてはくれない。

 そのベコリと痕の付いたあもの顔に、イーサは数回呼吸を肩で繰り返すと、それまで吊り上げていた眉を、ヘタリと倒れ込ませた。

 

「さとしはぁ、いーさが居なかったから、おこってるのかぁ?そうなのか?なぁ、あも。さとしはもうイーサが嫌いになったのか?」

 

 不安の余り口に出した言葉が、更にイーサの不安を煽る。そのせいで、イーサの目からは、次第にとめどない涙が零れ落ち始めた。

 一週間前はサトシの涙で濡れていたあもが、今はイーサの涙で濡れる。ぺしゃぺしゃだ。

 

「あも。こんな気持ちは初めてだ。さとしは呼んでも来てくれなかったイーサに対して、おこっているのかもしれない。そう思うと、たまらないっ」

 

 その金色の目からポロポロと流れ落ちる涙は、きっと聡志が見ていたら「綺麗だな」と思わず零してしまいそうなくらいには、キラキラと光り輝いて、それこそ宝石のようだった。以前、こうしてイーサが泣いた時は、サトシが「よしよし」と慰めてくれた。

 

 けれど、今は誰も居ない。一人だ。

 

「でもなぁっ?さとしが、怒って許してくれないことよりも、イーサには、もっとこわいことがあるんだっ!」

 

 グリグリと涙で濡れる顔をこすりつけながら、イーサはあもの綿の中に不安を吸い取らせるように呟いた。

 

「さとしに、何かあったんじゃないかって。死んだんじゃないかって。そう、おもうと、たまらないんだっ!!」

 

 イーサの癇癪は、会いに来てくれない聡志に対する“怒り”から来るものではなかった。怒りなんて、とうの昔に通り過ぎてしまっている。

そう、癇癪の正体はイーサの中に日に日に膨れ上がる、圧倒的な“不安”だった。

 マティックから炭鉱の状況は逐一確認している。それによると、サトシの潜る第三百五十二坑道では、まだ犠牲者は一人も出ていないと報告された。

 

 しかし、それも“絶対”ではない。

 

その情報も、炭鉱から此方に伝達されるまでの間に二~三日の時差を生む。それに、犠牲者の数は、余り多かったり早かったりすると、隊長の管理責任を問われる部分でもある為、報告書を偽って作成するケースなど、よくある事だ。

 

現に、他の坑道ではちらほらと“カナリア”の犠牲者も出始めていた。その為、追加のカナリヤを寄越せという要望書も上がってきている。

 

「……さとし」

 

いつ、サトシもその犠牲者の中に入るか分からない。

それに“カナリア”の死亡は、決して鉱毒による毒死だけが全てではない。

 

—–いーさぁ。ここ、いやだ。みんな、おれを、いらいらした目で見るんだ。

 

 炭鉱に潜ったばかりの頃の聡志の声が、イーサの耳をついた。

そう、カナリアは、共に炭鉱に潜ったエルフ達からの不満のはけ口として、嬲り殺されるケースだってある。

 

「あ゛ぁぁぁぁっ!!」

 

 嫌な想像と共に、イーサは、あもから顔を上げると近くにあった灯台を床へと放り投げた。そんなこと考えるだけでも頭がおかしくなりそうだ。

 

「やっぱり、行かせるんじゃなかった!マティックの言う事など聞かなければよかった!マティックのせいだっ!マティックの!!」

 

 最早、怒りに身を任せなければ正気を保っていられない。それほどまでに、イーサの心は不安定になっていた。そんな時だった。扉を叩く音が聞こえたのは。

 

「っ!誰だ!」

「失礼します」

「入ってくるな!」

 

 入るな、と言ったにも関わらず開けられる扉。そして容赦なく部屋へと足を踏み入れてくる人物に、イーサは腹から声を張り上げた。

 

「マティック!!入るなと言っているのが分からないのか!?」

「あぁ。こんなに部屋を汚して。物も壊して。いけませんねぇ、イーサ王」

「うるさいっ!お前のせいで!お前が!お前が言ったから!!」

 

 イーサは涼し気な顔を崩さぬマティックに、更なる苛立ちを募らせるとベッドの側にあった戸棚から、一つのナイフを取り出した。王族の部屋には必ずある。護身用という事になってはいるが、魔除けとしての意味合いの強い、飾りのようなナイフだ。

 

「それを、どうするおつもりで?イーサ王?」

 

 しかし、決して切れない訳ではない。イーサはそのナイフを、まるで当てつけのように“イーサ王”と口にしてくるマティックへと向けた。

 魔除けの意味合いが強くとも、鋭利に尖ったソレは、どうあっても凶器以外の何物でもない。それをイーサは振りかぶると、怒りに任せてマティックへと投げた。

 

「いけませんねぇ。本当に」

「全部、お前がわるい!お前のせいだ!いーさは、さとしを、ずっと此処に置いておきたかったのに!おまえが、おまえがぁっ!」

「痛いじゃないですか、本当に」

 

 イーサの放ったナイフは、マティックの頬を掠め、床へと突き刺さっていた。真っ赤な血が、マティックの頬を伝う。

 

「しかし、一応。この状況下であっても私を殺してはならない、という最低ラインの判断は出来ているようで安心しました」

「おまえが、ぜんぶっ!わるいっ!」

 

 イーサは天井を仰ぎ見ると「サトシ」と言う名を、幾度となく叫んで泣いた。そんなイーサを前にマティックは深い溜息を吐く。

 

「感情のふり幅が激し過ぎます。王たるもの、一つの事でこのように取り乱してはいけません。何があっても、愛する者が死んでも、皆の前では平静に」

 

 コツコツコツ。

 と一定の足音を鳴らしながら、マティックはベッドの上で泣き喚くイーサへと歩み寄った。

 

「っぅぅぅっ」

「そしてもう一つ。この国の王は、その一言で全国民を自由に動かす事が出来ます。今や貴方にはその力がある。全て貴方の自由だ。だからこそ、その決断による結果も、全て王の責任。つまり、」

 

 マティックは大声で泣き喚き、最早、自身の言葉が届いているのか一切わからないイーサ相手に、手に持っていた書類を勢いよく投げ渡した。

 

「全部、貴方が“悪い”んですよ」

 

 縋る事を一切許さないマティックの言葉にイーサは大きく目を見開くと、次いでハラリと目の前で散った書類の一文へと目を奪われた。

 

「っ!」

 

 そして、慌てて書類をかきあつめ、食い入るように文字を追う。

 それは、炭鉱からの報告書だ。時差こそあるものの、これこそがイーサがサトシの現状を知る事の出来る、唯一の術だった。

 

「っさとし……」

「貴方には、もう少し精神の乱高下をご自身でコントロールする術を身に着けてもらわねば。サトシに何かある度に殺されそうになったのでは、私も命がいくつあっても足りない」

 

 傍で厭味ったらしく口にされる言葉を、イーサは欠片も聞いてはいなかった。なにせ、その報告書にはハッキリと“サトシ・ナカモト”の名前が記されていたのだ。

 それも、死亡者の欄にではない。その報告書には、こう書かれていた。

 

ナンス鉱山、第三百五十二坑道……現時点における、採掘距離。過去最高。その最大の功労者は――。

 

「サトシ・ナカモト」

 

 その名をポツリと口ずさんだイーサの声に、マティックは壁に体を持たれかけさせながら満足そうに窓の外を見た。

 まさか、本当にこうしてその名を報告書の中で目にするとは思わなかった。「この任務で功績を上げろ」とは言ったが、本当にその片鱗を見せてくるとは。

 

「時間がない中、よくやっているじゃないですか」

 

 マティックが普段は滅多に口にしない賛辞を口にした。けれど、もちろんそれが本人へ届く事はない。

 

「あぁ、さとしだ。さとしのことが、かいてある」

 

 そんなマティックの側で、イーサは食い入るようにその書類の一文一文へと目を通す。その文字を追いながら、イーサの耳の奥で、聞こえる筈のない聡志の優しい声が聞こえた気がした。

 

 

—–どうだ、イーサ。俺は頑張ってるだろ?じゃあ、お前はどうだ?

 

 

 その幻聴でしかない筈の声に、しかしイーサは先程までの自身の身の振り方を、大いに恥じた。頬を薄紅色に染めながら、ただイーサには一つ気になる事があった。

 

「じゃあ、なぜ。サトシはイーサに会いに来てくれない?」

 

 その小さな疑問が、イーサのホッと撫でおろした胸の中で、また小さな影を落とした。