164:名前で呼ばれたい

 

 

 俺は幼い頃からずっと声優になりたかった。

 

 

≪それでは、一体どうして人類はここまで成長できたのか。その数億年に及ぶ、長い歴史を紐解いていきましょう≫

 

『ん?この声、誰だ?』

 

 テレビから聞こえてきたナレーションの声に、思わず顔を上げた。淀みのない落ち着いた声が上手くBGMと調和して、スルリと鼓膜を震わせてくる。うん、良い。好きだ、この声。

 

『誰だろう、新人?』

 

俺の問いに、それまで一緒に雑誌を見ていた金弥も耳を澄ませた。そして、すぐに何か思い当たったように俺の方を見て言った。

 

『あぁ、コレ。多分、声優じゃないよ。俳優だ。今ドラマにも出てる』

『へぇ、俳優か。俺ドラマとか全然見ないから知らなかった。何て名前?調べる』

『……知らね』

『はぁ?ドラマ見てんだろ?』

『見てないし、たまたまCMで見ただけだし』

『なに急に不機嫌になってんだよ。じゃあいいよ。自分で調べるから……えっと』

 

 急に不機嫌になった金弥を横目に、俺は今やっている番組名で検索をかけた。すると、すぐにその俳優の情報へと行きつく。便利な世の中だ。

 

『うわぁ。やっぱ俳優さんって顔も良いな。顔も声も良いなんてズリィ。……ふーん。この人が出てるなら、ドラマも見てみよっかな』

『そのドラマ全然面白くないよ』

『やっぱ見てんじゃねぇか!』

 

 見てないなんて嘘吐きやがって!

スンとした顔で目を逸らす金弥に、俺はフンと鼻を鳴らしてやった。

 

『別にドラマの内容とか、どうでもいんだよ!!声が聞きたいだけだし!』

『……あぁ、もう。言わなきゃ良かった』

『お前が言わなくても調べてましたー』

『そんなに良い声じゃねぇし。演技だってそんなに上手くねぇし』

 

 隣でボソボソと不機嫌そうな声を漏らす金弥を余所に、俺はと言えば、テレビから流れてくる声に、ソッと耳を澄ませ続けた。

 

『……うん、良い声だ』

 

 憧れる。そう、俺は心の中で深く認定すると、ポケットに入れていたメモ帳に、その俳優の名前を書いた。

 

 そう、俺は小さい頃から声優になりたかった。いや、もちろん今もなりたい。

 だから、男性声優なんかは、“好きな声優”と“憧れの声優”が同居してしまっている。飯塚さんや、中里さんなんかは正にそうだ。

 

『いいなぁ。俺もこんな声だったらなぁ』

『またそんな事言ってる』

『だってさぁ、俺。ここまで低い声質で声出せねぇし。憧れる』

 

 まぁ、飯塚さんと中里さんに関しては、大物感が凄くて“憧れ”の成分の方が強い。でも同時に大好きでもある。

 憧れるなら好きだし、好きなら憧れる。その二つは、俺の中で一本の同じ道の上にある感情なのだ。

 

『サトシだって良い声してるよ。別に他人の声になる必要ないじゃん』

『……まぁ、なりたいって言ってなれるモンじゃないけどさ』

『俺。サトシの声、好きだよ』

 

 金弥が急に真面目な顔をしてそんな事を言う。その、普段とは異なる低い声に、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 

『……真面目に言うなよ、恥ずかしい』

 

金弥から目を逸らしながら、心臓が嫌な音を立てるのを聞いた。危なかった。今、俺は思ってしまう所だった。

 

 この声好きだな、と。

 

 でも、そんな事思いたくない。好きだと思ってしまったら、憧れてしまう。手の届かない場所に居る人達だから、“好き”でも“憧れ”ていても平気な顔していられるんだ。

でも、こんな隣に居るヤツに憧れてしまったら、俺は……きっと平気な顔をしていられなくなる。だから、金弥を好きだと思う感情に、俺は必死に蓋をする。

 

なのに――。

 

『ホントの事だ。別に恥ずかしくない』

『っ!』

『俺、サトシの声好きだ』

『……ぁ、う』

 

 それなのに、金弥ときたら。こんなにハッキリと俺の声を好きだなんて言う。俺は自分のちっぽけなプライドと、弱さになんとも恥ずかしい気分になった。

 それでも、俺は怖くて……好きだなんて認められない。

 

『……ありがと。キン』

 

 俺が金弥の顔を見れないまま、俯いてソレだけ吐き出した。恥ずかしい。いろいろ、自分の中の全部が恥ずかしい。

 

『……うわ。サトシ。かわ』

『あ』

 

 その瞬間、金弥と俺の声が被った。そして、俺はと言えば金弥の手の中で捲る途中になっていた雑誌に釘付けになる。

 

『ちょっとキン!雑誌貸して!』

『へ?』

 

 呆けたような声を上げる金弥に、俺は金弥の手にあった雑誌を引っ張り寄せた。

 

『うわぁっ!』

 

好きなら憧れる。憧れるなら好き。

 でも、それは男性声優なら、の話だ。女性声優となると、話は別。

 

『うっわ!今月号の特集!華沢さんと速水さんじゃん!ヤバヤバ!』

 

 ペラリと捲られたページに対談形式で映る二人の綺麗な女性声優の姿に、俺は先程までの羞恥心を一気に消し去った。今や、好きだと思った俳優のナレーションも耳に入ってこない。

 

『あぁ、やっぱこの二人可愛いなぁ!綺麗だなぁ!』

『……サ、サトシ』

『声も顔も可愛いなんて……!もう完全に好きだ』

『……』

『あーぁ。こないだのコンサートも抽選外れたし。サイン会もダメだったし』

『は?いつの間にそんな応募してたの?』

 

 金弥がまたしても不機嫌な顔で俺に詰め寄ってくる。いや、コンサートの抽選に応募した事なんて、いくら幼馴染でも逐一言う必要ないだろ。抽選に当たったならともかく。

 

『……別に、キンには関係ないだろ』

『はぁ!?関係あるし!言えよ!』

 

 金弥が俺の手から雑誌を奪い取る。なんで俺がそんな事で金弥に怒られないといけないんだよ!

 

『なんだよ、お前も行きたかったなら応募すれば良かっただろ!』

『別に行きたいワケじゃないっ!つーか、サイン会って事は……サトシ!金無いって言ってた癖に、変なモン買ったんじゃないだろうな!?』

『変なモンとか言うな!写真集だし!』

『そんなんに無駄遣いするくらいなら、引っ越し費用貯めて俺と一緒に住めよ!』

『無駄遣いじゃねぇっ!だいたい何で俺がお前と一緒に住む前提になってんだよ!俺は、俺はっ!』

 

 再び金弥の手から雑誌を奪い取ると、俺は純粋に“好き”という気持ちだけで構成された熱を腹の底から一気に吐き出した。

 

『華沢さんと速水さんに、“サトシ君”って名前を呼んで貰いたいんだっ!』

『はぁっ!?なんだよソレ!そんなに名前で呼ばれたいなら、俺がっ!』

『なんでお前が呼ぶんだよ!俺は華沢さんと速水さんに、』

『サトシ君!』

 

 俺の言葉を、金弥の声が遮る。うわ、コイツ!俺の事君付けで呼びやがった!

 

『気持ちワリィな!?何がサトシ君だ!』

『サトシ君!サトシ君!サトシ君!』

『やめろ!』

『サトシ君も、俺の事“キン君”って呼べよ!』

『はぁっ!?何だソレ!意味わかんねぇ!』

『金弥君でもいい!呼んで!いや、呼んでください!』

『い、や、だ!』

 

 深夜。

 俺と金弥のバカな口論は、隣の部屋からの激しい壁ドンによって有耶無耶のまま霧散した。そう、女性声優に対する俺の気持ちは、“好き”の一択。完全に、一人のバカな男性ファンへと成り下がる。

 

 俺は、華沢さんと速水さんに、ずっとずっと!名前で呼ばれたかったのだ!

 

 

 なのに――

 

 

「なぁに?人間のオスの分際で、気安く私を見ないでちょうだい」

「だそうです。ソラナ様を見ないでください。サ……人間のオス」

 

 

 人間のオス。

 コレはコレで、少し興奮してしまう俺は、変態なのだろうか。