166:羊なのか、狼なのか

 

 

「ちょっ、えっ」

 

 俺は目の前で繰り広げられる美しいキスシーンに、完全に目を奪われていた。いや、これはこんな不躾に視線を向けたらダメだろ。だって、こんな。

 

「んっ」

「っふ」

 

 他人のキスシーンだぞ!見るな見るな!失礼だ!ただ、目が離せない!

更に、合間に漏れ聞こえる二人の声に頭がジンと痺れるような感覚になってしまうから堪らない。あぁ、声というよりは呼吸音に近い。

 

「っうわ」

 

そんな、その鼻から抜ける甘い声色に心臓を跳ねさせながら、俺は思ってしまった。

 

「ぁ、っはぁ、」

——–名前、呼んでくんねぇかな。

 

 少しだけ息を乱し、ゴクリと唾を飲み下した時だ。その瞬間、懐かしい激痛が俺の首元に走った。

 

「っあっつぅぅぅぅっ!」

「っひ!」

「な、なに!?」

 

 意識の向こうで、可愛らしい声の悲鳴が二つ聞こえる。そりゃあそうだ、自慢じゃないが俺の声はめちゃくちゃ通る。普段からそういう訓練をしている。

 先程まで、妙に妖艶な雰囲気を漂わせていた部屋の中が、俺の悲鳴により一瞬にしてその色香の全てを吹き飛ばしてしまった。

 

 ただ、俺はそれどころではない。

 

「いっでぇぇぇっ!」

 

 首元に走る激痛に呻きながら、とっさにネックレスを見た。こうなるのは、二度目だ。一度目はナンス鉱山に行く直前。そういえば、あの時もソラナ姫の演説を聞いていた時に激痛が走ったんだった。

 

「な、なんだ……?」

 

 震える手でネックレスに触れてみる。しかし、別に手で触れても痛くも痒くも、熱くも冷たくもない。

 

「あ、あれ?」

 

 俺がベッドの上で蹲るように混乱していると、後ろから俺を抱き締めていたイーサの手が、スルリと俺の首と顎に添えられた。なんだか、いつもと触り方が違う。スルスルと、まるで飼い犬でも撫でるように、俺の顎の下を撫でてくる。

 

「え……?いーさ?」

「サトシ、ダメではないか」

 

 イーサの声に少しの苛立ちを感じる。この声は、金弥からもよく聞いた声だ。俺が、女の子と話していたり、他のモノに気を取られると、この声で名前を呼ばれる。

 

——–ねぇ、サトシ。ダメじゃん。

 

 顎の下を撫でられ、その長くて美しい指はそのまま俺のネックレスへと向かう。その妙に艶っぽい触り方に、思わず声が出そうになるのを必死に堪えた。なにせ、今ここに居るのは俺とイーサだけではないのだ。

 

「な、なにが?」

「ん?」

 

 振り返ってみると、そこには口元に笑みを浮かべ此方を見下ろすイーサの彫刻のような美しい顔があった。

 

「俺以外に、欲情するな。サトシ」

「っ!」

 

 その言葉に、俺はこのネックレスが、どういう時に“あんな風”になるのかを悟った。そう、これは俺が、

 

「あ、う……」

「以前もソラナに対して同じような事を思っただろう。まったくサトシには困ったものだ。すぐ俺以外に欲情して」

「~~~っ!」

 

 他人に、性的な欲求を覚えた時。

 自覚した瞬間、体中に熱湯をぶっかけられたような熱さに見舞われた。しかも、この場合、性質が悪いのは他人(イーサ)にも俺の“欲情”が筒抜けになってしまっているという事だ。

 

 そして、そんな俺にトドメを刺すかの如く可愛らしい声が続く。

 

「まったく、これだから男は汚らわしいわ!ね!?言ったでしょ!ポルカ!男はどんなに羊の顔をしていても狼なのよ!アイツ、私達の口付けに欲情したんですって!」

「……」

 

 う゛、うわーーーー!ごめんなさい!ごめんなさいっ!

 

「あ!いや、その……ちがくてっ!」

 

 ソラナ姫に言われ、ポルカがジッと静かな目で俺の事を見つめてくる。特に何を言ってくるワケでもない。しかし、その静かな視線に対し、俺は後ろめたさやら自分の性欲を暴露された恥ずかしさで、体の熱が更に上がるのを止められなかった。

 

 それどころか、奥底に眠っていた記憶まで呼び覚まされる始末。

 

——-軽蔑します。

 

「っぁ」

 

 イーサの部屋守をサボって寝こけていた時、開口一番、このポルカに言われた台詞だ。完全に今の状況にも一致するその言葉は、俺に非常に大きなダメージを与えた。まぁ、完全にセルフダメージなのだが。

 

「……ご、ごめんなさい」

「うむ、謝罪するのは良い心がけだ」

 

 お前に言ったんじゃねぇよ!と、イーサに言ってやりたかったが、もう半分泣きそうだったので何も言わなかった。いや、言えなかった。

 

「やっぱり間違いではなかったのね。お兄様が人間にネックレスを渡したのは。まったく、本当にお兄様には困ったモノだわ」

「別にお前には関係ないだろう。ソラナ」

「関係あるわ!王家のネックレスを人間に渡すなんて!そんなの!クリプラント王宮史をどこまで遡っても前例が無いわ!前代未聞よ!」

「世の中にある全ての事柄に、“初めて”はつきものだ。前代未聞から、今ある全ては作られていると言っていい。ソラナ、そんな下らない事を言う為に来たのなら、そろそろ出ていけ。俺はサトシと二人で色々とやらねばならぬ事がある」

 

 言いながら俺の肩に手をかけるイーサに、俺はただぼんやりとしていた。なにせ先程からずっと、ポルカが俺の事を見ているのだ。黙って。何を言う訳でも、何かの感情を浮かべるワケでもない目で。

 

「だから!私はお兄様と国政について、急ぎ話さなければならないの!」

「だからそれは後で聞くと、」

「今よ!今じゃなきゃダメ!夜には緊急の宮廷会議をするってマティックが言ってたもの!」

「じゃあその時でいいだろう」

「ダメだってば!他のボンクラ共を交えた会議じゃ、絶対に話が先に進まないもの!ここで今後の国政を決めておかなきゃ!事は一刻を争う事態よ!」

 

 華沢さんの声が、その瞬間一気に変化した。

 

「リーガラントが挙兵したの」

 

 挙兵。その余りにも聞き馴染みのない言葉に、それまで火照っていた俺の体からもスッと熱さが引いた。

 

「もう、進軍を始めているそうよ」

 

 先程まで“甘えた妹”の顔を浮かべていたソラナ姫が、今や一切の甘えをその表情と声から消し去っていた。そして、真剣な顔でイーサへと一歩詰め寄る。

 

「お兄様、戦争が始まるわ」

 

 凛とした声が、シンとした部屋に馴染んで消えた。俺はといえば“戦争”という言葉を、挙兵同様、どこか縁遠い国の出来事のように捉えていた。

 

「ほう、思ったより早かったな」

「お父様が亡くなってすぐに兵を挙げるなんて……アイツら卑怯よ!」

「別に卑怯ではあるまい。元々、入念に準備をしていたからこそ、このタイミングで挙兵出来る。アイツらにとっては待ちに待った好機だ。俺が人間でもそうする」

「お兄様!そんな事言ってる場合じゃないわ!このままじゃ、クリプラントが……!」

 

 俺の肩に乗せられていたイーサの手がスルリと離れていく。チラと横目にイーサを見てみれば、その手は口元へと添えられていた。

 

「……イーサ?」

「ん?どうした、サトシ」

 

 一体イーサは今、どんな表情をしているのか。添えられた手のせいで、窺い知る事は出来ない。そんなイーサに、俺は思わず「大丈夫か?」なんて口をついて出そうになるのを、唾液と共に飲み下した。

 

「……いや、何でもない」

「そうか」

 

戦争になる。クリプラントとリーガラントが。それは、確かに【セブンスナイト4】の最大のテーマだ。

 起こる事は、俺もどこかで当たり前のように“知って”いた筈なのに、いざ目の前にすると、何故か心臓が嫌な音を響かせてくる。

 

 そして、そんな戦争の当事者。一国の主が、この“イーサ”なのだ。「大丈夫か?」なんて聞いたら、王様であるイーサは「大丈夫だ」と言うしかなくなる。そんなバカな質問、口にする前に気付けて良かった。

 

『……いいよ。お前だけをそんな不自由な中に置いとけるかよ』

 

 この、他者に一切の本心を気取らせぬイーサの姿。これが、まさに“王”としての顔ならば、俺はその中にある“イーサ”を見つけて、言うべき事がある。

 

「お兄様。きっと他のボンクラは言うわ。国の威信をかけて迎え撃ちましょうって。人間なんか、エルフの敵じゃないって……過去の栄光に縋って、曇った目でそう言う」

「だろうな」

「でも、ダメよ。開戦した時点でクリプラントは、もう……」

「そうだな。戦いに勝っても負けても、クリプラントは近い将来亡びるだろう」

 

 イーサの、いや王の声が、国の滅亡をハッキリと告げる。そんな二人の会話を、やっぱり俺は他人事のように受け止めていた。この世界の戦争も、クリプラントの滅亡も、なにもかもが、俺にとっては他人事でしかない。

 

 

 だって、俺は“外”の人間だから。