そうやって、僕はどれくらいの間泣いていたでしょうか。
泣き過ぎて目が溶けてしまったような気がします。あぁ、なんだか頭がクラクラする。僕が再び目元を擦ろうとした時です。それまで黙って俺を見ていたケインが口を開きました。
「ラティ、お前。最近ちゃんと寝てるか?」
「……うん、ねてるよ」
「嘘吐くなって。目の下にクマが出来てる。最近、まともに寝てないだろ」
そう言って涙でみっともない顔になっているであろう僕の顔を、ケインの固く、太い親指がなぞります。触り方が強くて、少し痛いです。
「夜はちゃんと寝ろ。倒れるぞ」
「……ううん、勉強しないと。問題に答えられないから」
「何言ってんだよ。勉強してても今日は十五問も間違えたじゃねぇか」
「……う゛」
痛いところを突かれてしまいました。そう、どんなに必死に勉強しても、僕はやっぱりダメなのです。だって、僕は希代の「落ちこぼれ王太子」なのだそうですから。皆そう言っていますし、僕もそう思います。
「もう、アイツのムチ程度じゃ、俺は痛くも痒くもねぇよ。鍛えてるから」
「でも、ケインは痛そうな悲鳴を上げてる」
「……いや、あれは。そういうんじゃなくて」
僕の言葉に、ケインはどこか気まずげに目を逸らしました。ほら、やっぱり鍛えてるから痛く無いなんて嘘。だいたい、鞭に打たれて痛くない人なんか居ません。
「ともかく、もう今日は寝ろよ」
「いやだ」
「嫌だって……」
呆れたようなケインの言葉に、僕は勢いよく首を横に振ります。
「ケイン。明日は……もっと頑張って、全部答えられるようにするから。見てて」
「バカ、もう俺の事は気にしなくていいって言ってんだろ」
「ケインが痛いかどうかなんて僕には関係ない。だって、ケインが鞭に打たれるのを見る“僕”が嫌なんだ。だから、僕は僕の為に勉強をしてるだけ」
「ラティ……」
僕はフルスタのように立派な事は何も言えません。だって、僕は「名前も知らない国民」の為には頑張れませんから。
そう、僕は「僕」の為にしか頑張れない。僕は、ケインが鞭に打たれるところを、もう見たくない。僕は、僕の為に勉強をしている……身勝手な王子です。
「ラティって、変な所は凄く頑固だよな」
「そ、そうかな?」
「ああ、昔からそうだった。すぐ泣く癖に、急に大胆になるから面白い」
「そっか!」
ケインに「面白い」と言って貰えて、僕は急に元気になってきました。
「じゃ、じゃあもっと……あの、大胆な事をするようにするね!」
「っふ、ははっ。何だよソレ。全く、こういう所だなぁ」
「こういう所……」
一体どういう所でしょう。自分なんて何の面白味もない人間だと思っていたけれど、ケインには僕が面白く見えているようです。ケインを楽しませることが出来ているのだと思うと、僕は僕の事が少しだけ誇らしくなります。よく分かりませんが、今後も、もっとケインが笑ってくれるように「大胆な事」をしていこうと思いました。
「……ところで、ラティ」
「ん?」
なんだか嬉しくてクスクスと笑っていると、突然目の前にウィップが現れました。
「昨日のウィップに出てくる“サウト”って誰」
「サウト?えっと……誰だったっけ?」
「……昨日のダンスパーティで話したって書いてある。俺は訓練が長引いたせいで行けなかった。なぁ、誰?」
なんだか急につっけんどんになってしまったケインに僕は「あぁ」と、昨日のダンスパーティの事を思い出しました。
「サウトはヒリスト家の子だよ。他の貴族と違って、なんだかお行儀が良くて……感じの良い子だった」
「へぇ。顔でも好みだったか?」
顔?ケインは一体サウトを何だと思っているのでしょうか。サウトはただの中流貴族の、何の変哲もない男の子だというのに。
「えっと、顔は……そうだな。僕と同じで凄く凡庸で素朴な子だよ」
「でも、気に入ったんだろ?どんなヤツだったんだ?」
ケインが矢継ぎ早に尋ねてきます。そんなにサウトの事が気になるのでしょうか。なんだか面白くありません。まだフルスタは分かるけれど、どうしてサウトみたいな何の変哲もない貴族の事を気にするのでしょうか。もしかして、友達になりたいとか?もうこれ以上ケインの意識を誰かに取られるなんて嫌です!
「気に入ったっていうか……ただ、他の貴族の子は、どうにも権力に擦り寄る汚いハイエナみたいな部分が透けて見えて凄くいやらしいんだけど、サウトにはそういう所が無かったから、話しやすかっただけ。それだけの子だよ!」
そう、僕が必死にサウトの事を「別に面白い子じゃない!」と説明すると、どうやらケインは別の所が気になったようでした。
「ハイエナ……?」
「そう。他の貴族は皆そういう所があって、なんだか凄く気持ち悪いんだ!本人の器に見合わない過分な力を持たされると、あぁなってしまうのだと思う」
「……」
そうそう、確かそうでした。僕はポロポロと思い出される、昨日のダンスパーティでの様子を思い起こしながらケインに語ります。ケインはと言えば、なんだか変てこな顔で僕を見ていました。
「他の貴族も自らの身持ちを整えなければ。器のない権力への執着は、余りにもみすぼらしく見える。大国スピルの貴族として、もう少し楚々とした丁寧さも身に着けて欲しいよ。でないと、うちが人間の貧しい国だと思われてしまうからね」
「……そ、そうか」
「うん。それに僕が、後にも先にもこの世で一番綺麗だって思うのはケインだけだよ」
「っぐ」
だって、最初に見た時に、空から落ちて来たお星さまだと思ったくらいですから。あの日の衝撃は未だに忘れません。そうやって、僕が大好きなケインの顔をジッと見ていると、ケインは微かに頬を朱色に染め、スルリと僕から視線を逸らしながら言いました。
「ラティって本当に変わってるよな」
「変わってる……それは、ケインにとってイヤなところ?」
ケインが嫌なら直さなければ。何をどう直せば良いのか分からないですけど。でも、直します。そう、俺がジッとケインを見ていると、今度は耳まで微かに朱色に染めながら言いました。
「別に……面白くて良いんじゃねぇの」
「っ!そ、そう?僕、面白い?」
「……あぁ、面白いよ」
「ケインが面白いなら良かった!」
一日に二度もケインに「面白い」と言って貰えたのは初めてかもしれません。後でウィップに「嬉しかった事」と言って追加報告しなければ。僕が「ふふ」と笑っていると、ケインがウィップをソファの脇に置きました。逸らされていたケインの視線が僕の元へと戻ってきます。
そして、ソッと僕の頬に触れてきます。あ、そろそろ“アレ”の時間みたいです。
「ラティ、今日の分」
「っあ、そうだったね」
そして、肌着に隠れた腕の部分を僕の前へと差し出してきます。この時のケインの目は、いつもより少しだけ熱いです。
「ラティ……舐めろよ」
「ん」
僕はケインの体に出来た鞭の痕にソッと唇を寄せました。最初は舐めたりせずに、ソッと口付けをします。これは、僕の中の決まり。「早く良くなりますように」という願いを込めて、最初と最後に口付けをするのです。
「っふ……んっ」
最近、ケインは鞭の痕だけでなく訓練で出来る傷も多くなってきました。このキレイな顔にも傷を作ってくるのだから、僕はもう堪りません。
ケイン、ケイン、ケイン。お願いだから、怪我しないで。危ない事をしないで。僕の知らない所で危ない目になんて合わないで。
「っはぁ、ちゅ……っふ」
舐め上げるケインの腕は、幼かったあの頃ように柔らかくも細くもありません。どこもかしこも固くて太い。今では立派な兵士のソレです。
「ん、ンぅ……」
十年と少し前。ケインが初めて鞭に打たれた日の夜から、僕は毎晩ケインの傷を「治療」します。調べたら、唾液には本当に治療効果があるとの事でした。騎士達の言う「舐めていれば治る」というのは、迷信でも何でもなかったのです。
「ン……はぁっ、ちゅっ、じゅるっ」
なので、出来るだけ舌に唾液を絡ませてケインの肌を舐めます。ジュルジュルと僕の口元からはしたない音が部屋に響きます。でも、コレが大事。口内を唾液で満たし、微かに膨れ上がる傷痕を刺激しないように柔らかく、柔らかく舐めるのが「治療」のポイントです。
「っは」
すると、頭の上からケインの微かに熱を帯びた呼吸音が聞こえてきます。うん、この声は大丈夫。痛がっているワケではなく、気持ち良く思ってくれている時の声ですから。右腕が終わり、僕はどんどんケインの体中に舌を這わせていきます。
「っはぁ……ン。ねぇ、ケイン、この胸の傷。どうしたの?」
「今日の訓練で……避けきれなかったやつ」
「痛そう」
「ああ、痛いよ……っく」
「ちゅっ……っふ、はぁ、ん。……ッン」
ケインの胸元に出来た大きな打撲の痕を、僕はペロペロと舌を大きく舐めていきます。ケインの体からは石鹸と……ほんの少し、汗の匂いがします。舌に触れるケインの肌は少し汗ばんでいてしょっぱい味がしました。
「っはぁ、ぁ。ラティ。も、そこは……も、いいっ」
声変わりを経て、あの頃のような鳥のさえずるような高い声ではなくなったケイン。低く、唸るようなバリトンの声は、成長したケインの精悍な顔と相まって深い魅力を増しています。なんだか最近、治療中のケインの熱っぽい声を聞くと、体中がゾワゾワと優しく撫でられているような感覚になります。
「……っはぁ、ケイン。あんまり、怪我しないで」
「別に、好きでしてるワケじゃねぇし」
「こないだは顔に傷があった。やっと薄くなってきたけど……」
そう言いながら、僕はケインの口元に微かに残る打撲の跡に、ソッと舌を這わせました。ついでに、ここにも早く治るようにキスをしておきます。
ちゅっ、と小さく響いた音に、僕は少しだけ物足りない気持ちになりました。あぁ、物足りないって何でしょう。これは「治療」の筈なのに。もっと、ケインの体に触れていたい、なんて。怪我して欲しくないなんて言いながら。僕は、とても愚かです。
「なぁ、ラティ」
「ん?」
ソファに深く腰掛けるケインの体の上に、僕は膝立ちで跨るような格好でケインを上の方から見下ろしました。いつもはケインに見下ろされてばかりなので、僕はコッソリこの体勢を気に入っています。
「今日の鞭打ちで、俺口の中を切ったんだ」
「えっ、そうだったの!?」
「ああ」
僕がケインの言葉に目を見開いていると、いつの間にか腰にケインの太い腕が巻き付いていました。
「打たれた瞬間に、とっさに歯を食いしばったせいだと思うんだ。痛いんだよ。何食べても滲みるし……だから、ラティ」
そう言って下から僕を熱い視線で見つめてくるケインに、僕は続きの言葉が発せられる前にコクリと頷きました。あぁ、僕のせいなのに。僕が間違うから、ケインに痛い思いをさせてしまっているのに。
僕は、ハッキリと歓喜していました。
「舐めろよ」
そうケインが口にした時には、僕の唇はケインの口を塞ぎ、微かに開いたケインの温かい口内へと舌を這わせました。コレも初めてではありません。これまで、何度もしてきました。
「っふ、んッ……んっ、ふぁ」
「ん……」
ケインから突き出された舌に、僕は自らの舌を絡め、傷痕を探します。歯列をなぞり、ヌルイと蠢く側壁をなぞっても、傷がどこにあるのか分かりません。そうこうしているうちに、腰にまわされていたケインの腕にグッと力が加わり、僕の体は、固いケインの胸板にピタリと押しつけられます。互いに肌着なせいか、直に体温を感じてとても気持ちが良いです。
「っふ、っぁ……んんっ」
くちゅくちゅと耳元に響く唾液の絡み合う音に、僕は胸が熱くなるのを感じると、無意識のうちにケインの鎖骨に指を這わせてしまっていました。この、ゴツゴツしていて温かい感触を、僕は気に入っています。ここに触れると、なんだかとてもお腹の底がキュンとするのです。
「っはぁ、っは……けいん?」
「ラティ」
少しだけ息苦しくなって唇を離すと、そこには不満そうな目で此方を見ているケインの姿。その顔に、僕は思わずフフッと笑うと、ケインのもう片方の手が僕の後頭部に回されました。
「まだ、全然治ってない」
「ん」
僕は微笑みながら頷くと、互いに視線を合わせながら、もう一度ケインの唇に吸い付きました。重なり合うケインの温かい体に、僕は思うのです。
あぁ、やっぱり僕にはケインしか居ない、と。ケインさえ居てくれれば、僕は何もいらないのです。