(1) 4月:マスターの気苦労

 

 

 青葉溢れる五月半ば。

喫茶【金平亭(こんぺいてい)】の店内は、今日も満員御礼だった。爽やかなコーヒーの香りが立ち込める、築五十年以上の古い店内。

 

 ここは、俺のお城だ。俺が俺らしく自由に生きる為の大事な場所だ。

 

「マスター」

「ん?」

 

 春風みたいに軽やかな〝彼〟の声に、俺はふと顔を上げた。

 

「オーダーです。ブレンドとアメリカン。それにガトーショコラが入りました」

「了解」

「あ、これは八番さんのオーダーですね。俺、持って行きます」

「ありがとう。じゃあ、お願い」

 

 彼は透き通る紅茶のような明るいオレンジ色の髪をフワリと揺らすと、首を傾げてコーヒーを注ぐ俺の手元へと視線を落とす。そして、まるで香りを楽しむように一瞬だけ目を閉じた。あぁ、なんて優雅な姿なんだろう。

 

「良い香りですね」

「ふふ。新しい豆を取り寄せたんだ。休憩時間になったら、淹れてあげるよ」

「……ありがとうございます」

 

 店にはひっきりなしに客が来て忙しいのに、何故か彼の周囲だけは時間がゆったりと流れているようで不思議な空気感が漂っている。ただ、だからと言ってのんびりしているワケではない。動きの全てが洗練されていて無駄が無く、判断も早い。

 

「でも、これが終わったら先にマスターが休憩に入ってくださいね。朝から全然休んでないでしょう?」

「でも、まだお客さんが……」

「大丈夫、必要な時は呼びますから」

 

 そして、周囲への気配りも最高だった。こんなバイトの子、どこを探したって早々見つかりはしないだろう。

 

「ありがとう、寛木(くつろぎ)君」

 

 頷いた瞬間、それまで見ないフリをしていたはずの疲労感がズシリと肩に乗って来た気がした。そんな俺を見透かすように寛木君は微笑むと、客へのオーダーを手に軽やかに店内へと踊り出た。

 

 カラン。

 

 来客を知らせるベルの音と共に、五月の颯爽とした風が手元のコーヒーの香りを揺らす。その瞬間、「マスター」と俺を呼ぶ寛木君の声が聞こえた。顔を上げる。

 すると、こちらを振り返った寛木君とパチリと目が合った。次いで、オレンジ色の柔らかい髪が微かに風に靡く。

 

「マスター。店を閉めた後、お話をする時間を頂いていいですか?」

「へ?」

「出来れば、二人っきりで」

 

 彼にしては珍しく俯き加減で口にされる言葉に、俺はハタと気付いた。寛木君の頬は、微かに赤い。もう五月なのに、桜の花びらみたいな柔らかい色だった。

 

「い、いいよ。田尻さんが帰った後、二人で話そうか?」

「……ありがとうございます」

 

 ペコと、会釈をして今度こそ店内へと迷いなく向かって行った彼の後ろ姿に、俺は少しだけ浮わついた気持ちになる。胸の奥がこそばゆい。あぁ、顔が熱い。

 

「ど、どうしよう……」

 

 寛木 優雅(くつろぎ ゆうが)君。二十一歳。大学四年生。

 先月からこの店でバイトとして働いてくれている、凄く良い子。イケメンで性格も良くて、礼儀もなっている。そして、何より、

 

——–マスターのコーヒーは本当に美味しい。俺、大好きです。

 

 俺のコーヒーを美味しいと言ってくれる。

 ただ、コーヒーを飲みながら微笑む彼の顔は、いつも微かに赤らんでいた。それに、「好きです」と口にする彼の目は、いつもコーヒーではなく〝俺〟に向けられていた。だから、俺はどこかで確信していたのだ。

 

「こ、告白されたら、なんて答えよう……」

 

 きっと、寛木君は俺の事が好きに違いないって。口にした瞬間、熱かった顔に更に熱が籠った。

 

「まてまて。俺、店長だし。寛木君はバイトの子だし。っていうか、寛木君は男の子だし!あぁ、でも今の時代はそういうのは関係ないよな……」

 

 いや、俺なんて特に何の特徴も、決して顔が整ったヤツなワケでもないけど……ほら、人を好きになるって顔だけじゃないだろ。性別だって関係ないし!

 なんて事を、俺の浮かれきった頭は本気で考えていた。そう、俺はこの時、完全に浮かれていた。浮かれ散らかしていたのだ。

 

「えーっと、『ごめんね、寛木君ならもっと素敵な子に出会えるよ』なんてどうかな。いや、これじゃ無責任過ぎる?」

 

 脳内で告白された時のシミュレーションなんかして。はたまた、ちょっとだけ良い感じになってしまった妄想なんかもしながら。

 だって、寛木君は、俺の事が好――

 

 

 

「あぁ、もう。我慢できねーから言うけどさぁ。この店、半年以内に百パー潰れるわ。これケッテー事項ねぇ」

「へ?」

「あと俺、コーヒーじゃなくて。紅茶の方が好きなんだぁ。覚えといてぇ」

 

 

 あれ?あれれれ?

 店が潰れる?紅茶?っていうか、

 

「……あれ、告白は?」

 

 思わず口から漏れた戸惑いに、俺の淹れた〝とっておきの珈琲〟を前に彼は激しく吹き出した。

 

「ぶはっ!マスター、マジで俺がゲイだって言った事信じてたんだっ!マジでウケるっ!最高過ぎ!」

「……え?」

「っくくくく!マスター、俺に好かれてると思ってたんだぁ!しかも、ノンケの癖にちょっと嬉しそうだしっ!あはははっ!とんだ勘違い野郎じゃん!こりゃ、店も潰れるわ!」

 

 最早、呼吸困難な程に腹を抱えて爆笑する〝彼〟に、俺は思った。

 今、俺の目の前に居る〝彼〟は、一体誰だ?と。