(2)

 

 

——–一カ月前。

 

 

 あれ?これは一体どういう事だ?

 

 

「ますたー!アメリカン2、あとホットサンド、ガトーショコラですー!」

「伝票そこに置いといて!」

 

 目まぐるしい、目まぐるしい。

 俺はその日も、懸命に自分の店で働いていた。昼どきの店内は、全席が客でごった返している。

 

 このご時世、本当にありがたい事だ。しかし――。

 

「ちょっと!私が頼んだのは紅茶じゃないわよ!コーヒー!お茶一杯に一体どれだけ待たせるのよ!」

「っす、すみません!」

 

 騒がしい店内から、後を引くような耳障りのする甲高い怒声が聞こえてきた。手元に並べられた伝票にチラと目をやる。同時に、俺は眉間に指をかけて小さく息を吐くと、すぐに側に準備していたホットコーヒーを手に店内へと飛び出した。

 

「お待たせしました。ホットのアメリカンです」

 

 突然背後から現れた俺に、場の視線が一斉に集まる。

 

「……」

「どうされました?」

「……私は、アイスってお願いしたはずだけど」

「え?」

 

 その言葉に、俺はヒクリと眉を顰めた。隣では、どうして良いか分からずオロオロとモタつく女子高生バイトの田尻さん。

 

「……申し訳ございません。すぐに作り直します」

 

 頭を下げる俺に、数名で共に店を訪れていた中年の女性達が一斉に何か騒ぎ始めた。この店内のざわめきの半分はこのババァ共によるものだ。そして、最悪な事にこの店の常連でもある。

 

「ねー?私はアイスってお願いしてたわよねぇ!?」

「してた、してた」

「今日は暑いからアイスにしようかって言ってたわ!」

 

 あぁっ、やかましい!黙れ、このクソババァ共が!

 俺は絶対に覚えている。確かに注文の時は「ホットコーヒー」と注文していたはずだ。なにせ、「ブレンドですか?アメリカンですか?」と尋ねた時、「どっちでもいいわよ!」と一蹴されたのだから!クソッ!ブレンドとアメリカンは全然違うだろうがっ!

 

「……」

「ま、ますたぁ」

 

 隣から田尻さんがポニーテールを揺らしながら首を振る。その目は完全に「この人達、うそつきですよぉ」と訴えかけている。あぁ、分かっているよ。田尻さん。

 大方、ベラベラ喋っている間に喉が渇いて、これ幸いとこちらのミスとして注文を変更する気だろう。そう、分かっているのだが……

 

「……申し訳ございません。すぐにお持ちしますね」

「早くしてよね!」

 

 俺は笑顔で頭を下げた。

 お客様を神様だとは一切思っていない。けれど、これ以上この客に時間など使ってはいられない。なにせ、とにもかくにも店は大盛況で忙しいのだ。俺は次のメニューの準備に移らなければならない。

 

「ますたー」

「大丈夫。ほら、行くよ。田尻さん」

「でも」

 

 眉間に皺を寄せ、納得いかないといった表情を向けてくるバイトの彼女は、まだ高校三年生だ。二年前の店のオープン時からずっと働いてくれているが、どうも思った事がそのまま顔に出てしまう節がある。接客業としては少し問題だ。

 

「この後、休憩に行ってきていいから」

「でも、お客さんたくさんだし」

「いいよ。少し休んでおいで」

「……はい」

 

 まぁ、仕方ないだろう。だって、まだ彼女は十七歳なんだから。俺が高校生の頃は、バイトなんてした事すらなかった。バイトの無断欠勤なんてよく聞く話なのに、この子は一度もバイトを休んだ事はない。むしろ、殆ど毎日入ってくれている。良い子だ。

 

 そう、俯く彼女に再び「行こうか」とコッソリ声をかけた時だった。

 

「ねぇ、あの二人。絶対にデキてるわよね」

「そうね。まだ女の方は若いし、お金欲しさに色仕掛けでもしたんでしょ。一体いくら貰ってるのかしら」

 

 背後から聞こえてきた下卑た会話に、隣に立って居た田尻さんのポニーテールがユラリと揺れた。

 

「あぁ、ヤダヤダ。職場で女を売るなんて。あのマスターもまだ若いし、コロッと騙されてんのよ。やぁね。いやらしい」

 

 チラと田尻さんへ視線を向ける。ヤバイ、完全に目がブチ切れてる。早いところ彼女を店の奥に引っ込めねば。田尻さんは普段こそ「ますたー」と、どこか抜けたような話し方をしているが、キレると手が付けられないのだ。

 

「でも、あのマスターでいいのかしら。顔も全然パッとしないし。趣味が悪いわよねぇ」

 

 カラカラとした笑い声が、下品極まりない会話の合間に店を揺らす。いや、揺れているのは田尻さんのポニーテールか。それとも俺の視界か。ムカつき過ぎて、眩暈がする。

 

「金さえ持ってりゃ何だっていいのよ!顔なんて嫌なら見なきゃいいんだから!」

「それもそうねぇ!」

 

 締め上げるぞ、クソババァ共が!俺に金なんかねぇよ!この店がどれだけ赤字だと思ってんだ!

 

 その笑い声に、俺は怒りを落ち着けようと深く息を吸った。しかし、沸騰しきった頭は一切冷却されたりはしない。隣に居る田尻さんは、どうしているだろう。だが、気にしてあげられる余裕は一切ない。

 

 あれ、つーか。なんでこんなに客が居て……この店は赤字なんだ?

 そう俺がザワつく店内を、どこか遠くに感じた時だった。

 

カラン

 

 店のベルが鳴った。

 また客が来たようだ。開いた扉を通じて、四月にしては肌寒いくらいの風が外からフワリと入り込んできた。その風に、沸騰しきっていた頭が、少しだけ落ち着く。

 

「い、いらっしゃいませ」

 

 とっさに振り返る前に口にしていた。条件反射だ。あのベルの音を聞くと、もう反射でそう口にしてしまう。

 しかし生憎、席は全部埋まってしまっている。もう新しい客を対応するのは無理だ。本来ならこのベルの音は嬉しい音のはずだったのに。今ではウンザリしてしまう。そんな自分が、嫌で堪らない。

 

「すみません。満席で」そう、口にしようと振り返った時だ。俺は言葉が喉の奥で詰まるのを感じた。驚き過ぎて声が出ない。

 なにせ、そこに立って居た男の子が、とてつもなく――

 

「あ。もしかして、満席ですか?」

「っぁ」

 

 優しい色をしていたからだ。

 首元にまで掛かる髪の毛はフワリと空気を含んで柔らかく、まるで紅茶のアールグレイが光に透けたような明るいオレンジ色をしていた。目に沁みる程の鮮やかな色彩が、そこには立って居た。そう、彼はどこからどう見ても〝春〟だった。

 

「あっ、えっと……」

 

 思わず口ごもる俺に対し、その彼は小首を傾げる。ふと、細められた瞳は気遣うような色を含み、口元に引かれた唇は程よく色付き、いやらしさのない色気を醸し出していた。一言で言おう。品の良いイケメンが、そこには立って居たのである。

 

「イケメンやぁ」

 

 隣から聞こえてきたのは、安穏とした感想を漏らす田尻さんの声。どうやら、イケメンの登場に先程までの怒りはすっかり納まったらしい。助かった。「くたばれ!」と叫びながら客に殴りかかろうとする彼女を後ろから羽交い絞めせずに済んだ。

 

 同時に店内から一組の客が立ち上がる音がした。どうやら、もう出るらしい。

 

「あっ、ますたー。私がお会計してきまーす」

「あ、お願い」

「はーい!」

 

 客の動きにイチ早く気付いた田尻さんが、ひょことその場から駆け出していった。

 

「お客様、席を片付けますので少々お待ちください」

「はい、ありがとうございます」

 

 俺が声をかけると、春を背負ったようなそのイケメンは屈託なく細めた目で嬉しそうにこちらに会釈した。なんて良いお客さんなんだ。

 テーブルを片付けなければ。そう、俺が空いたテーブルへと向かおうとした時、会計を終えた二人の客からポソリと声が漏れた。

 

「落ち着いたお店だと思ったのにね」

「うん、なんか全然落ち着かなかったね」

 

 台拭きを手にテーブルをゆっくりと拭う。ツキリと痛む胸。きっと、この人達は二度と来てくれないだろう。

 

「……お客様、こちらへどうぞ」

 

 けれど、表情には出さない。今、目の前に居るお客さんに集中しなくては。そうでなければ、この場所は守れない。

 この店【喫茶 金平亭】は俺の大事なお城なのだから。