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次の日から、さっそく寛木君はバイトのシフトに入ってくれた。
大学四年で単位も殆ど取り終えたからと、俺のお願いするタイミングにはいつでも合わせられると言ってくれたのだ。
「これからよろしくお願いします。マスター」
そう言って頭を下げた彼、寛木君は本当に、ほんっとうに掛け値なしの〝良い子〟だった。
さて、どのくらい良い子かというと――
「俺、この店の事好きですよ。コーヒーの良い香りで凄く癒されますから」
「マスターの淹れてくれるコーヒーは本当に美味しいですね。俺、大好きです」
「あれは……またあのお客さんですね。大丈夫です。俺が行きますので。マスターは商品の準備を」
「マスター、実は俺ゲイなんです。あ、あの、気持ち悪いですよね。すみません。店をクビにして頂いてもけっこうですので……え?そんな事しない?今まで辛かっただろう?マスターは優し過ぎますよ」
最高に良い子だ!
イケメンで性格も良い、仕事も出来て、礼儀もなっている。
彼のお陰で、あれほど酷かったクレームが少しだけ減った。特にあのクレームババァ集団は大分と大人しくなった。やはりイケメンには見苦しい所は見せたくないらしい。
まったく、今まで色々と苦労もあっただろうに、彼は愚痴一つ零さない。彼の口から誰かの悪口なんて聞いた事は、ただの一度もなかった。俺が大学の頃は、こんなに立派じゃなかった。
本当に、寛木君は良い子〝だった〟。
そう、つい〝先程〟までは。
「っはぁぁ、もう!マスター。……アンタ、マジでウケるんだけど」
あれ?これは一体どういう事だ?
「へ?あれ?」
誰も居なくなった店内で、俺の淹れたコーヒーを前に向かい合わせのソファ席で偉そうに片足を膝の上に置き、背もたれにドサリと体重をかける彼。
あれ、あれれーー?
良い子だった……はずだよな?
「あぁ、もう。我慢できねーから言うけどさぁ。この店、今年中に百パー潰れるわ。これケッテー事項だからぁ」
「え?」
イケメンで性格も良くて、仕事も出来て、礼儀もなっていた……はずだったよな?
「理由は経営者がバカだからぁ!コレ一択っしょ!最初は隣で見てて笑い堪えるのに必死だったけど、もームリぃ!面白いの通りこして、最近ずっとイライラしてきたもんねぇ!俺にとってはクレーマーよりアンタのが完全にストレスだったわ!」
「え?え?」
色々と苦労もあっただろうに、愚痴一つ零さない。彼の口から誰かの悪口なんて聞いた事は、ただの一度もなかった……よな?
あれ、寛木君ってこんなダラッとした喋り方だったっけ?
「いっちばん、ウケるのが俺に告白されると思ってたってヤツ!ナイナイ!マスターだけはあり得ねぇわ!っていうか、俺がゲイってのも嘘だからーー!マスターってほんと何でも信じ過ぎ!そーゆーとこだよぉ?ほんと、アンタってカモがネギ背負って歩いてる感じだよねぇ」
いつの間にか足を下ろし、両肘をテーブルに付いていた彼は、やはり酷く絵になっていた。でも、どうしてだろう。いつもと全然違う。喋り方も、態度も、浮かべる笑顔も。
ちょっ、ねぇコレなに、新キャラ?
新キャラ登場?俺、新しい人雇った?
「マスターはさぁ、多分こう思ってるよねー?良いモノを真心こめてお客様に提供してさえいれば絶対に商売は上手くいくって。っはー!オメデトウ!オメデタイ人!」
「え、え?ちょっ!く、寛木君!?」
ここに来て、やっと声を発するに至った俺に、寛木君はコテリとその首を傾げて見せた。あ、これは普段からよく見てた仕草だ。
「あ、あの……君は」
「ん?ドシタの?マスター?……俺が誰に見えますか?」
そう言って、一瞬だけいつもの礼儀正しい喋り方に戻った彼に、俺は思わず素直に答えてしまった。
「寛木 優雅(くつろぎ ゆうが)君」
「ぶはっ!素直か!……そうですよ?俺は先月この店の求人広告を見てバイトに応募した〝良い子〟の寛木優雅クンです」
寛木君は言いたい事だけ言うと、腰かけていたソファからスクリと立ち上がった。その拍子に、耳にかかっていたオレンジ色の髪がスルリと落ちた。ずっと思っていた。この髪色、紅茶のアールグレイみたいな色だって。
「はぁっ、スッキリした事だし。帰ります。今日も忙しかったですからね」
「あ、うん」
先程までの事など、まるで無かったかのように〝いつもの姿〟に戻る彼。あぁ、確かに今日も店は満員御礼だった。ありがたい事に。しかし、
「マスター。お願いですからクビにはしないで下さいね?俺、潰れる店が見たくてこの店のバイトになったんですから」
「えっ、え?ちょっ、ソレはどういう……」
またしても衝撃的な言葉を口にする彼に、俺は混乱の境地に達していた。
「じゃ、明日からもまたよろしくお願いします。今日も商売繁盛の赤字経営お疲れ様でした。あ、ちなみに」
「あ、はい」
俺は、最早彼の放つ波になすがまま打ち上げられる海辺のゴミのような気分だった。俺の意思は一切問われていない。もう、混乱しながらも頷く事だけで精一杯。
「俺、コーヒーより紅茶派なんです。よろしければ、明日からの賄は〝紅茶〟でお願いします」
「……」
最後にコテリと小首をかしげて背を向ける寛木君を俺は何も言えずに見送る事しか出来なかった。名は体を表す。寛木君はいつも優雅だ。そんな彼の後ろ姿を、瞬きすら忘れて目で追う。
カランと店の入口のベルが鳴った。残されたのはシンと静まり返る、客の捌けた薄暗い店内。そして、この店。喫茶、金平亭の店主である俺。
青山霧(あおやま きり)
鼻から息を静かに吸い込む。
すると、そこからは俺の好きなコーヒーの香りが一気に鼻孔を擽った。コーヒーの香りにはストレスを軽減する効果がある。うん。お陰で少し落ち着いてきた気がする。そして、最後に寛木君が口にした言葉に、俺は思わず声を漏らしていた。
「……なんで、寛木君。ウチが赤字って、知ってるんだ?」
その問いに答えてくれる相手は、もう居ない。