(6)

 

◇◆◇

 

 午後八時。店を完全に閉めた俺は田尻さんを見送って店内の最終チェックに入っていた。ついでに、明日の開店に向けて在庫のチェックもしなければならない。

 

「ねぇ、マスター」

「何だよ」

 

 もう帰っていいって言っているのに、寛木君はいつも最後の戸締りまで一緒に居る。在庫のチェックをしつつ、軽く意識だけレジ締めをしてくれている寛木君へと向ける。

 

「俺用の紅茶、もう数少なくなってんじゃない?追加で買っといてねぇ」

「……え?あ、ほんとだ」

 

 俺用の紅茶。

 それは休憩中に寛木君に淹れてあげる紅茶のティーバッグの事だ。あれだけ沢山入っていたモノが、あと残り僅かになってしまっている。

 

「あのさ、寛木君。飲み過ぎじゃない?」

「そう?」

「そうだよ。一日何杯飲んでるんだよ、まったく」

 

 だいたい、これは俺の厚意で買ってあげている紅茶であって、絶対買わないといけないモノでもないのに。コッチはずっと経営は赤字なんだぞ。

 

「今日は十五杯くらいは捌けたかなぁ」

「はぁっ!?飲み過ぎ……っていうか、そんなに飲む時間ないだろ!あ、もしかして、家に持って帰ってる?」

「そんな貧乏クサい事、誰がするかっての」

「でも!」

 

 想像よりも遥かに数の多い数字に、俺は在庫のチェックの手を止め、レジを締める寛木君へと体を向けた。すると、そこには既にレジ締めを終えた寛木君が、カウンターの内側にある紅茶の茶葉が入った容器の中身を確認し始めた。

 

「マスターさぁ、紅茶は専門外なんだよね?」

「……そうだけど」

「じゃ、何でわざわざ茶葉から淹れてんの?コレも、なんかわざわざ海外から取り寄せてるヤツでしょ」

 

 コテリと小首を傾げながらこちらを見てくる寛木君は、やっぱり愛嬌があった。その目は、先程までのようなバカにしたような色はない。ただ、純粋な疑問を投げかけている。そんな感じだ。

 

「……だって、せっかくお店に来てくれてるんだから。少しくらい美味しくて特別なヤツを飲んで欲しいと思って」

「ふーん。でも、誰も味の違いには気付いてなかったよー?」

「へ?」

 

 寛木君の言っている意味が分からず、俺は目を瞬かせて彼を見た。すると、いつの間にか俺のすぐ傍まで寛木君が歩いて来ていた。なんでこうもこの子は動作の一つ一つが丁寧なのに、素早いのだろう。

 

「あのいつものやかましいオバさん集団居るじゃん?あと、よく見かける常連客っぽい人達に今日ソッチのティーバッグの方の紅茶出したけど、誰も何も言ってなかったよ?」

「はぁっ!?」

 

 寛木君の口から放たれた、あまりにも予想外な言葉に俺は思わず声を上げた。は?何だって?

 

「ちょっ!何勝手な事してるんだよ!お客さんは不満があるからってわざわざ言いに来たりしないんだ!変だな、美味しくないなって思ってたら明日から来てくれなくなるかもしれないだろ!?」

「ごめんねぇ」

「いやいや、ごめんじゃなくてっ」

 

 一切悪びれる様子のない寛木君に、さすがの俺も拳を握りしめて叫んでいると、いつの間にか寛木君の手が俺の頬スルリと撫でていた。寛木君の顔も物凄く至近距離にある。

 へ?なに、この状況。

 

「一週間前」

「っ」

 

 その仕草があまりにも絵になっているせいで、俺は何を言おうとしてたのか一瞬にして頭から飛んだ。顔が、物凄く熱い。

 

「一週間前からだよ」

「は?」

「だーかーら」

 

 そう思った瞬間。優しく撫でられていた頬から寛木君の手がスルリと顎に移動し、グイと俺の顔を上へと向けた。そのせいで、俺の視界は春みたいな寛木君の鮮やかな色でいっぱいになる。

 

 なになに、なに!一体何だよ!この状況は!?

 

「一週間前から、マスターが休憩入りしてる時の紅茶は全部そのティーバッグで客に出してたって言ってんの」

「は、え?」

「でも、誰も何も言わないし。なんなら、毎日来てる客は、やっぱり毎日ここに来てるよね。客足減ってた?どう」

 

 頭が混乱し過ぎて、寛木君から問いかけられた内容の事しか考えられない。客足?いや、全然変わってない。いつも通りだ。

 

「……へって、ない」

「ね?だーれも、マスターが海外から取り寄せてるこだわりの淹れたて紅茶と、大企業様が大量生産しているティーバッグのお茶の味の差になんて気付いてないってコトー」

 

 コテリと、いつものように小首を傾げる寛木君は愛嬌があって可愛いのに、完全に上から俺を見下ろしていた。物理的にも、精神的にも。

 

 え?あれ?俺が色々拘って選んでた茶葉は意味がなかったって事?

 寛木君の言葉が、ジワジワと俺の中へと染みわたってくる。その間も、寛木君の言葉は止まない。

 

「そうだろうとは思ってたけどさぁ。ほんっとに、思った通りの典型的な潰れる店コースを全速力で走りまくってんね」

「な、なにがだよ」

 

 俺の問いに、寛木君は「っは。ほらね、全然分かってない」と鼻で笑って見せた。

 

「マスターは、自分が淹れるこだわりの紅茶とコーヒーのお陰でお客さんが来てるって勘違いをしてるから、店が赤字でも何も対策を練ろうとしないんだね。うん、うん。よーくわかったぁ。こりゃ、やっぱ店の余命も半年以内ってトコかなぁ」

「……よめい?」

「そ、この店の残された時間。色々収支を見てないからハッキリとは言えないけど、見なくても分かるわ。潰れる店の典型だからね」

 

 余命、残された時間。

 まるで人間の寿命みたいな言い方に、俺は寛木君の手に顎を掴まれたまま、視線だけで店内を見渡した。

 

 俺の大事な店の余命が、あと半年?

 するとその瞬間、無意識なのか何なのか、俺の顎を掴んでいた寛木君の手が俺の顎の下を撫でた。さっきまで痛いほど強いちからで掴まれていたのに、今は背筋がゾワゾワする程優しく撫でられている。まるで、ペットの犬や猫を撫でるみたいに。

 

「つぶれないし。だって、お客さん……たくさん来てる」

「うんうん。そうだね。お客さんがいっぱい来てるから、変に勘違いしちゃうよねぇ。どうせなら閑古鳥が鳴いててくれた方が、まだ早めに気付けるのに。お陰で、マスターがまた勘違いしちゃったじゃんねぇ?」

 

——–自分のコーヒーが皆に好かれてるって。

 

「っ」

 

 スルスル、スルスル。

 言葉は厳しいのに、寛木君の手はどこまでも優しい。俺を見下ろす目も優しい。もしかしたら、寛木君は俺の事が好きなのかも……なんて、もう思えるワケがない。

 だって、寛木君の目が優しいのは、俺を対等な人間なんて欠片も思っちゃいないからだ。その辺の犬とか猫を撫でてるような、そんな感じ。