(9) 7月:くつろぎ君の悩み

 

 俺は、昔から女にモテた。

 

「ねぇねぇ、優雅くーん」

「んー?」

 

 ちょっとやそっとじゃない。かなりモテた。いや、モテている。現在進行形で。

 

「優雅くんって、もう内定もらってたよね?あの、大手不動産会社の総合職で」

「まぁねぇ」

「すごーい!あそこ、めちゃくちゃ人気だから倍率凄いのに!」

 

 そう言って、うっすい下着みたいな服でピッタリと俺にくっ付いてくる女子相手に、俺は条件反射で最高の笑顔を向けた。うん、よく訓練された良い表情筋だ。

 

「ねぇ。じゃあさぁ、夏休みは一緒にどこか遊びに行こうよ。去年までは就活で忙しかったけど、今年は時間あるでしょ?」

「んー、まぁ」

「やった!私、もう色々調べてみたんだけどね」

 

 あぁ、クソ。マジでダリィ。クーラーの効きの悪い古いゼミ棟の一室で、あまりベタベタくっついて来ないで欲しい。

 でも、そんな気持ちはおくびにも出さない。本当によく訓練された表情筋だ。ただ、少しだけ頬が疲れてきた。

 

「ね、どう?これなんか良くない?」

 

 そう言って、俺の前に差し出されたスマホには、明らかに日帰りじゃ無理そうな旅行先が示されている。しかも、明らかに集団で行くような旅行先ではない。カップル向けの旅行プラン。

 

 え?俺達付き合ってた?なんで、たかだかゼミが同じなだけの男とカップルプランの旅行提案してんの?こわ、キモ。

 

「へぇ、いいね。ここ」

「でしょ!」

 

 薄い肌着の向こうにある、柔らかい胸が肘に当たった。甘ったるい香水の香りが、鼻の奥をつく。あぁ、くせぇな。この匂い嫌いだわ。

 多分、この子はゼミの中では、一番顔が良い。確か、去年の学祭のミスコンに選ばれたとかなんとか。あれ、違ったか。まぁ、その辺はどうでもいい。

 なにせ、俺は――。

 

「でも、ごめんね。この夏はちょっとインターンシップで忙しくてさ」

「え?」

 

 俺は、ゲイだ。

 俺は肘に当たる柔らかい肉の塊から逃れると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 

「インターンシップ?い、いま?内定もらってるのに、なんで?」

「んー。社会経験のタメ、かな」

「内定先に来いって言われたの?」

「ん-、まぁ。ちょっとねぇ」

 

 相手から戸惑いに満ちた視線がしつこく追いかけてくる。そりゃあそうだ。インターンシップは基本的に、大学三年の夏、冬に行うのが殆どだ。大学四年の夏にインターンシップを受けるなんて普通はあり得ない。

 

「ねぇ、優雅君。どこのインターンシップ受けてるの?」

「ナイショ」

「……そう」

 

 不満気な視線が向けられる。どうやら、ウソを吐いていると思われているらしい。まぁ、実際にウソなワケだが。でも社会経験の為というのはウソではない。本当だ。

 時計を見ると、バイトの時間が迫っていた。

 

「じゃ、俺。そろそろインターンの時間だから」

 

 俺は〝事業が失敗するところ〟が見たいのだ。夢を追いかけて、リスクも考えずに不用意に飛び込んで。それで、盛大に失敗する大人が見たい。

 だから、あの喫茶店でのバイトも、俺の社会経験を目的としたインターンシップみたいなモンだ。

 

 俺は荷物をまとめると、スマホを片手に微かに俯く女の子相手にサラリと背を向けた。バイトの時間ギリギリだ。多分、今頃クソみたいな常連客達を相手に、店主であるマスターが一人でキリキリと走り回っているに違いない。想像すると笑えてくる。おかげで、最近全然退屈しない。

 

 そう、俺が自然と上がる口角に従おうとした時だった。

 

「……優雅君のウソつき」

 

 背中から、女の子の声が小さく漏れ聞こえてきた。その声には「自分の誘いを断るなんて」という不満の色がハッキリと透けて見えている。

 

「じゃ、行くね」

 

 俺はそんな彼女の声に聞こえないフリをしながら教室を出た。エアコンの効いていない、ムワリとした熱気が俺の体を覆う。でも、さっきまで腕におしつけられていた生ぬるい感触と、甘ったるい匂いよりは幾分マシだ。

 

「はぁ」

 

 後ろ手に教室の扉を閉めた瞬間、思わずため息が漏れる。

 これまでどうにか当たり障りなく過ごしてきたのに、最後の最後で手を抜いて小さな不協和音を起こしてしまった。

 でも、仕方ない。なにせ、今はあのマスターが、店をどんどん傾けさせていくのを見る方が、よっぽど面白いのだから。

 

——-優雅君のウソつき。

 

 名前すら曖昧な女子の声が、脳裏を過る。

 

「……あぁ、クソ。疲れた」

 

 でも、まぁいい。これは失敗のうちには入らない。

 だいたい、ゼミに顔を出す機会なんてもう早々ないし。というか、単位も卒論も終わらせた俺からすれば、大学に顔を出す事自体減るだろう。

 

「あーぁ。めんどくせぇ四年間だったな」

 

 要領も、顔も、家柄も、何もかもが平均以上。それなのに、この俺には一つだけ「平均以下」な部分があった。

 

「……なんで、普通に女が好きになれないんだよ。俺は」

 

 性的欲求も恋愛感情も、全てが男にしか向かない。そのせいで、俺の人生は面倒な事ばかりだった。

 

 男しか好きになれないのに、この平均以上の顔が必要以上に女を引き寄せる。良いなと思う男は、基本ノンケ。もちろん告白など出来っこない。

 寛容になってきたとは言え、この世界でLGBTは、未だにマイノリティだ。下手に動いて社会的地位を棒には振れない。

 

 俺は、もう失敗なんかしたくない。

 

「あ、プリント」

 

 ふと、今日のゼミで教授が持って帰るようにと言っていた今後のゼミのスケジュールを書いたプリントを取り忘れているのに気付いた。教卓に置いておくから持って行くようにと言われていたのに。

 

「なんで、イマドキ紙で印刷すんだよ。データ化しろ。メールでいいだろ」

 

 と、ボヤいたところで、いい歳をした教授にそれが通用するはずもない。ゼミは必修科目だ。何かあると面倒だし、取りに戻った方がいいだろう。

 

「ま、少しくらい遅れても大丈夫か」

 

 バイト先からの評価などどうでもいい。どうせ、居るのはバカでお人好しなマスターだけだし。それに、俺をクビに出来るほど、あの店には金にも人にも余裕はないのだから。

 

 そう思った時だった。ふと、耳の奥で声が聞こえた。

 

——–寛木君、紅茶。無くなったから、今日は俺のコーヒーでもいい?

「……」

 

 そんなはずはないのに、微かにコーヒーの匂いがした気がした。

 

「でも。まぁ、出来るだけ急いで行ってやるか」

 

 俺はスマホで時間を確認すると、来た道を足早に戻った。ジワリと額に汗が滲む。暑い。まったく、早く夏なんて終わればいいのに。

 そうやって、俺が片手で額の汗を拭いながら、ゼミ室の扉を開けようとした時だった。

 

 声が、聞こえた。

 

「ねぇ、優雅君ってホントに内定取れてんの?インターンとかウソ吐いて、焦って就活中なんじゃなくて?」

「お前知らねーの?寛木の内定先って、自分のトコの会社だぜ」

「えっ、そうなの!?っていうか、コネ入社なんだ。全然凄くないじゃん。褒めて損したぁ」

 

 扉に手をかけた瞬間、教室の中から聞こえてきた話し声に、そのまま俺の体は固まった。

 

 あぁ、なんだコレ。