(25)

 

 

「ほんと、何から何まで全部間違うんだな。あの人は」

 

 青山霧。

 そもそも、あんなお人好しは起業にも商売にも向かない。そんな人間が三年近くも店を続けてこれたのは、祖父から受け継いだ店と土地というラッキーパンチがあったからだと思っていた。特に、飲食店経営というヤツは「経営手腕」よりも、毎月支払うべき「固定費」が安ければ安いほど長続きしやすい。

 

 でも、それだけじゃなかった。

 

——–いつでもおいで。

「っは」

 

 マスターにはちゃんと傍に居たのだ。お人好しなだけじゃない。「客」を「数字」や「売上」で管理できる冷静で頭の良い〝性格の悪いイヤな奴〟が。

 そう、まるで俺みたいな奴が。

 

「だから、今はゆうが君が居てくれて良かったーって私は思います」

「……なに、俺はソイツの代わりって事?」

 

 無意識のうちに言葉に苛立ちが含まれてしまう。やめろ、そんな風な態度を取ったら、まるで俺が――。

 

「ゆうが君、コージーさんにヤキモチなんか焼かなくていいですよ」

「はぁっ!?焼いてねぇし!」

 

 ちょうど頭の中に浮かんできていた懸念を、何の気のてらいなく言語化されてしまった。その瞬間、謎の熱が俺の体を覆い尽くす。もう十月で、肌を撫でる風は大分涼しくなったのに、ジワリと汗が額に浮かんだ。

 

「ヤキモチってなんだよ、ソレ!ワケわかんないし!つーか、マスターみたいな二日会わなくなっただけで忘れそうな薄塩顔、マジで一番タイプじゃねぇんだけど!」

「じゃあ、忘れないようにずっと見てるの?」

「だからっ!見てねぇし!」

 

 俺ときたら、叫びながら自分の顔がどんな状態になっているか、しっかりと自覚出来るほど熱を持ってしまっていた。

 あぁ、クソ!ダサ過ぎるっ!

 

「安心してください!ゆうが君とコージーさんは全然似てないです」

「いや、だから気にしてねぇし!」

「それに、私は、ゆうが君の方がますたーとは〝合う〟って思います!」

「……ど、どこが」

 

 完全に会話の手綱を握られてしまっている。ダサ過ぎる。そう、自覚はあったが、ミハルちゃんの前だと思うと、そんなのどうでも良い気がした。

 この子の前で取り繕うなど今更だ。

 

「コージーさんはますたーを泣かせた事はなかったもん。ゆうが君はすぐ泣かせるけど!」

 

 ソコかよ。

 

「……悪かったな、すぐ泣かせて」

 

 つーか、それのどこが〝合う〟っていうんだ。むしろ相性は最悪な気がする。そして、コージーというヤツはあの人を泣かせてなかったという事実に、妙に腹がモヤついた。

 

「悪い事なんて全然ないですよ!むしろ、私はますたーを泣かせた方が良いって思ってます

「は?」

 

 いつもの如く、突飛なミハルちゃんからの返しに、俺は呆けた声を上げた。この子は一体何を言っているのだろう。

 

「えっと、別にますたーをイジめて良いって事じゃないですよ!ただ……えっとぉ」

 

 でも、思案する彼女の横顔に口を挟むのを止めた。こういう時の彼女は、とても大切な事を伝えようとしているのだと、俺はもう知っている。

 

「コージーさんはますたーを泣かせたりしなかったけど、ますたーが泣く時はいつも傍にも居てくれなかった。でも、ゆうが君は違うもん」

 

 真っ黒な大きな目が、じっと俺の視線を捕らえる。

 この子は、何も考えていないようで、その実よく他人を見ている。だから、放つ言葉は物事の本質を射ている。

 だから、俺はいつも思っていた。ミハルちゃんも……大分と生き辛いだろうな、と。この世界は、正しい事がイコール良い事なワケでは無い。

 

 この子は、どこか俺と似ている。

 

「ゆうが君はますたーを泣かせるけど、でも泣く時はいつも一緒に居てくれるから、私は安心してます」

「まぁ、俺が泣かせてんだからさ、必然的にそうなるでしょ」

「ふふ、それがいいの」

 

 何言ってんだよ。いいわけねぇだろ。

 

「だから、あの時面接に来てくれたのが、ゆうが君で良かったぁ」

 

 それなのに、ミハルちゃんは機嫌よくポニーテールを揺らしてこちらを見る。そんな彼女に、俺は何も言えなくなってしまった。

 人間、嫌な事言うヤツより、優しい方が好かれるだろ。それに、男だったら、もちろん〝女〟の方が好きに決まってる。こんなの、ずっと前から分かってる事だ。だから、俺も少しくらい〝普通〟になろうとしてたのに。

 

「ねぇ、ゆうが君」

「なに」

「ますたーの泣き顔好き?可愛いって思う?」

「……」

 

 隣から、ミハルちゃんのとんでもない質問が聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。むしろ、顔を合わせていないにも関わらず、ジッとこちらを見つめてくる強い視線を感じる。

 

「好きなわけねぇじゃん、あんな不細工な泣き顔……」

「ほんとに?」

「っぐ」

 

 繰り返される問いに、なんだか、顔だけじゃなく首や耳の先まで熱くなるのを止められなかった。それは、決して脳裏に焼き付くマスターの泣き顔を思い出したからそうなったワケではない。断じて、ナイ。

 

「……き、嫌いじゃない」

「だと思った。ますたーの困った顔、かわいいから私も好きです!」

「笑顔でとんだS発言してくるじゃん」

「そう、私はエスです!なので、ゆうが君を困らせるのも好き!」

「……」

 

 まったく、とんでもない女子高生だ。末恐ろしくてたまらない。

 俺は、良い大人が失敗して泣く姿が好きなだけだ。だから、別にマスターの泣き顔が特別好きというワケではないんだ。とは、わざわざ言わなかった。いや、言えなかった。

 その時には既にミハルちゃんの視線は俺ではなく、再び満員御礼のコーヒーブルームへと向けられていた。

 

「でも、マスターの泣きそうな顔は見飽きたので、そろそろ本当にお店をどうにかしてあげたいです」

 

 視線の脇に見える行列のできるコーヒーショップの前には、立ち寄ろうとしていたサラリーマンが、その様子を見て肩をすくめながら入るのを諦める様子が見えた。しかも、それをしているのは一人や二人の話ではない。

 

 時計を見る。現在の時刻、六時三十分。電車までの待ち時間だろうか。もしくは、すぐに家に帰りたくないのか。

 知りもしないあのサラリーマンの気持ちが、俺は少し分かるような気がした。

 

「常連を作るには、まずは生活の動線に、あの店を食い込ませないと」

「え?」

 

 失敗する大人が見たかった。

 取り返しのつかない失敗をした大人が、人生に絶望する横顔を隣で見てみたかった。

 バカで、本質を何も理解していない愚かな大人が派手に倒れる様を、興味深く、他人事として観察したかった。でも――。

 

「確かに、俺もあの人の転ぶ所は……見飽きたかな」

 

 あぁ、そうだ。もう何度も見た。あの人の泣き顔は。可愛いなんてとんでもない。不細工で無様で、そう何度も見たいモノじゃなかった。

 なにせ、俺は別にSってワケじゃない。普通の……ただの、臆病で小心者な、ただの同性愛者だ。

 

 でも、だからなんだ。